人の目が見れなくなった

2023年3月16日

 気が付くとぼくは、人の目が見れなくなっていた。

 オンライン通話では見れるんだけど、物理空間ではうまく見ることが出来ない。

 ぼくは、元々かなり人の目をしっかりと見て話をできる人だった。

 決して、相手に興味がないわけでも、テキトーに話しているわけでもない。

 時折現れる吃音も似たようなものだが、どうにもコントロールが出来ない深層心理が影響している。

 心のどこら辺の恐怖心がこういう悪さをしているのかは、本当はよくよく知るところ。

 きっと、ぼく、すごく痛かったんだと思う。

 今も、立ってるのでやっとで、呼吸を整えるので、精一杯になる時がある。

 心をある程度許せる人と一緒にいてしまうと、それも難しくなり、涙を隠すことも難しくなって、場を離れてしまうことにも、もう慣れてしまった。

 自分の脳みその1%しか動いていない状態がもう一年半続いているが、自分の持っている可能性が制限されてしまうのがこれほど悲しく、寂しいことなんだと、ようやく気がつく。

 目を見れない相手には、特徴がある。

 「やっぱりこう思ってました」と認識論的事実の構築を簡単にやってしまいそうな人。

 ちょっと、流石に、それだけはマズイだろということを、されすぎてしまったのだろう。

 ぼくは、きっと痛かったんだと思う。

 怖いんだと思う。そういう人が。

 大切なひとが、ずっとそういう人に傷つけられてきて、ぼくはその人にとってこの世界で唯一の、ほんとうにそういうことをしない人だった。けれどまた、その人は苦しみの中で沼に取り囲まれ、今度はその人自身がそういう人になっていってしまった。

 たくさんの諦めと、たくさんの欲望は、その人をその沼の奥深くまで引き摺り込んだ。

 その人が沼から脱出できた時、ぼくの痛みは何倍にもなってその人に襲いかかることをひしひしと感じる。あなたがどんなに痛もうと、ぼくはあなたの前に立って、その痛みに何度だってタックルする。何度吹き飛ばされても、君に少しその痛みが当たってしまっても、ぼくは絶対に諦めない、君の前に立って、その痛みを全部受け止めてやる。

 きっと、君はぼくの手を、ぎゅっと握るから、

 その時にはもう、全てが大丈夫になっている。

 大丈夫になっているから。

 

 この社会の99%の人が認識論的スクリーンの内部に生きる人なら、ぼくはそのみんなと目を合わせて喋れないのかもしれないけれど、そのせいで全く想いが伝わらないかもしれないけど、もがきたい。ぼくは何も諦めない。

 伝えることは死んでも全て伝えたい。もうこれ以上いのちの可能性が奪われないように、抱きしめたい。ぼくの力は本当にちっぽけかもしれないけれど、人の目が見れなかったり、いろんな障害が出て、もっと困難になっているけれど、出会ったら手を握りたい。

 ぼくの内にある恐怖心なんて全て溶かすことを諦めない。

 あなたがいなきゃ結局無理なのは、きっとぼくもあなたも分かっているけど、でも、諦めたりなんかしないから。

 ぼくは君も、いのちも、諦めたりなんかしないから。

 あなたが、大好きだから。