親切といふこと。大切といふこと。

2023年5月10日

 日本語は実に奇天烈である。言葉の語源なんて諸説ありすぎて分からないし、使われ方は時代や地域によって変化するから、人の意図を超えて自由さを身体的に保ち続ける面白いメディアである。その前提を共有した上で今日は文章を始めたい。

 「親という字はね、木の上に立って子供の帰りを見ると書く。」

 これはある人が、ある父親に向かって言った言葉である。その父親は昔、植木職人をしていた。しかし、ある時怪我をして仕事ができなくなり、酒に溺れるようになった。母親のいない家庭だったので、一人息子の中学生はグレていた自分を立て直し、バイトをして生活費を稼いでいた。しかしその父親はその息子が一生懸命働いて得たお金さえも、自分の酒代に使い果たしてしまう。

 それを見た息子の担任教師が父親に向かって言った言葉である。

 様々な諸説も、誤差はあれど同じような語源を述べているものが多い。なんとも示唆深い。

一方で

parentは、ラテン語の「parere(生み出す)」に由来します。「parere」は古代ローマで父親が子供を「生み出す(産ませる)」行為を指す言葉であり、後に「親」の意味合いも持つようになりました。つまり、「parent」は「生み出す」という動詞から派生した「親」という意味を持つ英単語です。

 とあるように、英語での親と日本語での親の意味(風景)の差が文化や倫理、歴史そのものも包含しているようでとても面白い。

 

 だが今日考えたいのは、「親」に「切」を合わせた「親切」という言葉である。

親切

 語源については諸説あれど、単純に読めば、「親を切る」と描いている。親を切ることが、「しんせつ」なのだろうか。

 日本的父性について日々考えている僕からすれば、この発見はすごく自然なものに感じられた。

 子が親を切ることを、「親切」だというのなら、あまりにも凄いと言わざるを得ない。日本的自然観に感服する。

 「友」でもない「仲間」でもない、「親」なのである。そこしかないよな、という、そこをついて来ているその凄さを歴史に観る。

 歴史から学ぶ者たちとは、この悦びを言わずもがな共有できる気がする。

 だがしかし、この母性社会の藻屑として生きる経験主義者たちとは、対話さえ通じる気がしない。そもそも「親を切る」に感じる風景の広さそのものが違うのだろう。

 では、親を切るとは一体なんだろうか。

 子が親に反抗することだろうか、子が親を泣かせることだろうか、子が親をナイフで切りつけることだろうか、子が親の提示する選択肢に×を突きつけることなのだろうか。

 そんなくだらない話ではない。「親を切る」が「しんせつ」の真髄に至るには、子の父性の目覚めが鍵になる。

 子が親と向き合うときに子としての甘えが消え、父性が発露する時、「親切」はようやく姿を現す。

 人生では、親を切ってでも進まなければいけない時が、訪れることがある。

 それはもしかしたら、「許し」かもしれないし、「背負い」かもしれない。たいてい歳を重ねれば重ねるほど認識技術を上げて馬鹿になるものである。いのちへの誠実さを子が持った時、親はそれに立ちはだかる壁になることがある。

 親に対して、不誠実に×を突きつけて逃げ出すことが「しんせつ」ではない。ましてや親の価値観を満たして、悲しみや苦しみを放棄し、認識技術を上げる母性的行為から「しんせつ」の真髄が見えてくるはずがない。

 子にとって、親を傷つける痛みが、耐え難いものであるとするならば、「親を切る」ということが一体どれほどのことかはご想像の通りである。

 親にとってもまた、子の巣立ちを受け入れることは、やはり大きなことである。

 目の前にある痛みや悲しみを、誰よりも背負って、それでも前に進んで生きていく子のその一歩こそが、人が「しんせつ」を体現していけるはじめの一歩になるのかもしれない。

 

 

 さあ、であるならば、この流れでもう一つ考えたい。

大切

 大切とは何か。

 

「大切という字は大きく切ると書きます。真っ二つにされる覚悟があるからこそ、その人のことを大切にできるんですね。」

 

 こちらは、受動態として語られている。親切は、「親を切る」という能動態だったが、こちらは「大きく切られる」という受動態なのだ。

 勿論これも諸説ある。しかし、自分はこの風景にとても共鳴する。

 大切にしているフリをして、その人に真っ二つにされる「覚悟」ではなく「恐怖」や「不安」を持って人と付き合っている人が本当に多い。

 同情や共感、母性的な認識世界の同化による人生の選択は、時としてほんとふに利他的であることもあるのかもしれないが、ほとんどの場合欲望に似た香りのする「恐怖」や「不安」が大きく影響している。

 この寄りかかり合いを「支え」だと認識したり、「アイデンティティ」や「生きる意味」と認識するようになったりする。

 しかし、歴史によって生み出されてきたこの「大切」という言葉は、そうしたお花畑的認識を糞のように土に還す。

 こうした糞のような認識は、生命を簡単に奪ったり、いのちを傷つけたり、いきものの可能性を奪っていく凶器にもなり得る。大地を枯らす化学毒である。そんな凶器が「大切にすること」そのものなわけがないじゃないか。

 

 申し訳ないが貴方が今大切にしていると思っているその相手は君を大切にしていないし、親切にもしていないんじゃないか?

 もしくは本当は君のことを大切にしてくれている相手を、相手の表面に見えてくる悲しみや苦しみに惑わされて、不誠実に殺し続けているんじゃないか?

 

 自分の可能性も奪い、相手の可能性も奪い、それがひいては相手が自分の可能性を奪わせることに繋がり、その循環は認識外の大いなる自然を無視し、破壊する行為に繋がっているんじゃないだろうか。

 

 最後に問いたい。

 

 貴方は、大切にできていますか。

 親切な心を、内に秘めていますか。

 

 親切に生きる勇気を、

 いのちを大切にする勇気を、

 どうか、忘れないでください。