素朴であるといふこと

2026年2月11日

 この1年、知らず知らずのうちに向き合っていた気がする。

「素朴であるといふこと」

 素朴ってなんだろう。

 素朴の前に大切にしていたような気がするテーマは「諦め無き世界を生きる」で、そのあとが、「憧れを生きない」、そしてこの1年が、「素朴であるといふこと」だったような気がする。

 大体いつも、テーマは降ってくるものであって、探して認識するものではないから、「気がする」程度のものでしかないけれど、降ってくるものはちゃんと自分のものにしたいという想いがいつもあるんだ。

 この一年は、多くの「素朴であるもの」を、意識の外側で見つめていたような気がする。多く巡り合っていたような気がする。

 例えば、器。陶器も、「生と死にとことん向き合う」時は備前焼のような土そのものに何かを感じていたが、この一年はたとえ釉薬が塗ってある器でも、どこにでもありそうな器でも、大切な愛おしさを感じることがあった。これは僕にとって、大きな大きな変化である。なんでもない縫い物に、なんでもない灯に、目を向けられるようになった。好きだと思わなくても、惹かれることがなくても、大事なものがそこにあるような気がして、覗きたくなる衝動のようなものが、いつもそばにあったように思う。

 例えば、写真。「風のような霊性」がテーマにあった時は、白黒の奥行きにとても惹かれていたし、宣材写真のためのフィルターを探し求めていたときは、美しいデジタルカメラやフィルムカメラに惹かれ、自分の好きな世界を探したときはマイクロカメラレンズで撮る細部の世界が好きだった。でもこの一年は、加工も工夫もしていない、日常の写真にこれ以上ない愛おしさを、言葉にならないものを感じさせていただくことが、たくさんあった。

 「素朴」とは、なんだろうか。

 例えば、植物。美しい花の咲くものよりも、ただそこにあるものに、限りなく大切にしたいと思わせてもらうことがあった。手間のかかるものでも、枯れてなお「ある」ものに出会った。死んでなお大切にされる愛おしさを感じた。

 例えば、絵。これまでは個性的で他とは違うものや、美しいもの、丸くて可愛らしいもの、そんなものに惹かれていたが、そのどの特徴も持たなくても、大事だなあと思わせてくれる絵をたくさん見た。どうやっても真似できない素直な絵に、憧れを生きていない絵に、真似じゃないものに、圧倒的な愛おしさを感じさせてもらった。

 「素朴」について、僕は想う。

 それは老子や荘子の頃から伝わるそのままのものに対する誠実性にある。素朴とは、あちらこちらにある。例えば、写真。カメラで撮っている瞬間に、メディアを通して加工しているので、それはもう素のままではないということにもなる。だけど、写真の中にも素朴なものがある。これまでの僕は、「野暮にならない加工」や、「圧縮しない加工」という方向でばかり物事を捉えてきたけれど、そんなことを思っている時点でそれは切り分けの中を彷徨っていたような気もしてきたのだ。

 たとえそれがある目線から見れば加工されたものであったとしても、その目線自体が素朴でないのだとしたら、そんなジャンルわけに興味を持って行かれている場合ではないという大きな教えが降りかかっているということなのかもしれない。

 例えそれがなんらかのゲーム性のある中のものであったとしても、例えそれが誰かや何かによって形作られた空虚なものに属することのできる立場であったとしても、そうしたフィルター自体が「素朴」とはかけ離れた視点だと言えるのかもしれない。

 「素朴」であることは、ただ、そうであることである。

 多くの視点や視野で物事を守破離するという段階に向き合い抜いた先で僕に降ってきたテーマは、なんらかの視点や視野で物事を見た時点で、「素朴」ではなくなるという大きな気付きだった。

 切り分けられたものに対抗するために、切り分けないようにいようとすること自体が、切り分ける視点を通ってしまっているということなのだ。

 僕はまだまだ「素朴」としての修行が足りていないから、何にも核心に触れられていないような気がする。自分のものにはなっていないような気がする。いわばまだ守の段階にあって、それはだいぶ長くかかるだろう。守の時は、見様見真似で、なぜかなんて分からなくても強い衝動に動かされて意識の外側で巡り合うものに向き合い続けていけばいい。

 「素朴とはなんだろう」は、これからまだまだ続いていく。