22.おわりに

『日本的父性』- ほんとうの大丈夫もとめて –

 ある種のテーマとして、小さな頃からずっと向き合い続け、導かれるように追求し続けてきた「父性」を、その集大成としてこうしてまとめられたのも、あらゆるご縁が醸成したおかげのように感じられます。

 

 はじめの頃は「父性」というテーマを探求していたのですが、その過程で、誰かが言った

「父性はありすぎても気持ち悪いからねえ」

という言葉が、心の片隅にずっと引っ掛かり、それからゆっくりと「心地よい父性とは」というテーマへと進んでいくことになりました。

 結局そのヒントになるものは、「父性」を探求したいという目的や 意思 とは関係のないところで、たまたま出会った人、場所、もの、こと、あらゆるご縁がその姿で教えてくれたものたちでした。

「認識」というところから 脱構築 したのも、それをしたかったからではなく、私が実体験として触れた出来事や 風景 が、そのようだったというだけです。誰かを愛して、愛されて、苦しんでいる人や、痛んでいる人がいたら飛んでいくことを辞めずに、できなかったときや、気が付いていない自分を日々見直しては、反省して、生きてきたつもりです。

 嫌なことを見て見ぬフリをしてしまう根性無しの幼かった自分が、近代の権化のような認識論者の少年になり、ニヒリズムに陥って生死を彷徨い、 いのち の片割れと 「全」 に溶け、その全てを認識論者に破壊されて、地獄のやるせなさの中でそれでも守破離を続けて、こうした 風景 まで辿りつけたのは、それができたからだと思っています。だって、誰かにほんとうの「大丈夫を伝えることなんて、そうし続けないと、無理だったから。

 

 あまりにも根本的なところからの見直しに驚いた方もいるかもしれません。もっというと、正直ほとんどの人が「分かる」のは厳しい話だったかもしれません。けれども、もしも、本稿を読み、自分の中の何かが反応していそうな雰囲気を感じたのなら、身近なものに感じられたのなら、きっと何かが伝わったのだと思います。理解なんてしなくても、分かってるから、それなんだ、って、僕は、貴方の手を握って伝えたいです。ここに描いた 風景 が、歳をとっても、貴方の心に残る 風景 であることを祈っています。

 

 まずは、私たちを取り囲む近代概念の外側にいられる環境に身を置くことができれば、きっと貴方はもっと直接 風景 に触れる機会を得られると思います。自分自身で、周りにある近代概念の守破離から始めてみてください。すると、非常に長い道のりにはなるかもしれませんが、自分の言葉や行動、オーラなどにゆっくりと「 手触り感 」が回復していくはずです。

 また、ここまで読んだ上でもう一度(別付:零章の「まえがき」)から読み直すと、もしかしたら見えてくる 風景 が変わっているかもしれません。本稿に散りばめられた 風景 のその全てが、日々の生活の機微から触れてゆくことのできるものであり、小さなことでも、それがヒントであり、大切な一歩になると考えています。特に第三章と第五章については、人生の 歩み の中で、時折「素読」的に読み直していただけるような、そんな灯になっていくことを、祈るばかりです。

 

 何度も言いますが、「統計学的父性」は固体なので、ありすぎたらしんどいものかもしれませんが、「日本的父性」は風のような気体です。どれだけあっても、あり続けることなどないものです。

 父性」とは、「父性を持とう」と思って持つものではありません。本稿で描いたこと、守破離を続けること、「諦め」ないこと、「行って 会って やって 話す」こと、見て見ぬふりをしないこと、抱きしめること、決めつけてしまわないこと、全てが移ろいゆくこと、貴方の いのち はあるんだということ、風はずっと吹き続けたりはしないんだということ、生や死を飛び越えた誠実性を持つこと、大地に根差して生活をすること、満たされている瞬間に注意深くあること、そういったことをし続けて、勝手に醸成されるのが「日本的父性」なのです。

 

 本稿の「はじめに」で、私はこのように書きました。

「単に『理解しよう』とするのではなく、山登りをするイメージで読み進めていただければと思います。自分の人生の一歩一歩の 歩み の中で、さまざまな 風景 に出会ったときに、この本は山頂で微かに灯る道標になるはずです。」

 山登りなんてしなくたって生きてゆけるし、山登りをするから偉いなんてことはさらさらないということは多くの人に 共感 していただけるかと思います。山登りをする人としない人に優劣なんてないように、本稿で描かれていることを体現していこうがしていかまいが、なんだっていいのです。それだけは忘れないでください。この本を読んで「父性」に優しくなれる人が増えたり、万が一、一人でもこの世界に「日本的父性」を体現する人が現れたとしても、それは物好きの趣味(趣を味わう「 悦び 」)だと感じるくらいで十分なのです。

 もちろん、本稿を読んだ人が、もしも、日々の生活の中で「父性」に出会った時に、言葉なんてなく、敬い、希望を感じてくれたら、そんなに嬉しいことはありません。そうした周りの反応は、「父性」を宿した人が「父性」を 発揮 するために必要な勇 を守っていくはずです。

 そして、自分自身の生活の機微や取り組みに、 いのち に根ざしたロマンを感じたり、少しでも多くの人がそんな「希望」を守ることに遥かなる 意志悦び持てるようになれば、 いきもの としてのオーラが回復するはずです。

 それが少しずつでも広がれば、きっと、必ず、 日本 の停滞感は変わっていくはずです。小さな小さなことから、冒険し、挑戦できる子どもたちが現れ、大きな背中で守ってくれる大人が増えるはずです。傷ついてでも守ってくれた姿と、そこに生まれる 風景 に触れた人には、きっと何かが受け継がれるはずです。

 全てを投げ打ってでも、下手でもいい、完璧じゃなくていい、不器用でいい、それでも、たったひとつの いのち でいいから、その可能性を守ろうとする人が増えることが、私がこの国に唯一感じる希望です。

 そして、そんな「父性」の中でも、大地に根ざした「日本的父性」の萌芽が花を咲かせ、大きなイノベーションを生み、 日本 中に素晴らしい風が吹き抜けるようになる日を、楽しみにしています。

 

 

 そして、この世界の片隅にいるあなたが、 いのち を、生きようとする日を、私はいつまでも待っています。

 

 

「全てが必然であるかの様に、

『縁』はやおら形を成してゆく。」

-シルバーズ・レイリー『ONE PIECE』

(あなたの日々へと、

つづきますよふに)