1.はじめに

『日本的父性』- ほんとうの大丈夫もとめて –

 この世界のどこかに、もしもまだあなたがいるのなら。

 あなたのいのちとした約束を果たすために、生きた、その日々の記録を、ここに遺したい。この原稿『日本的父性』は、その日々の結晶だ。

 私にできることは、本当に些細なことしかなくて、でも、ここに残す原稿は、きっと未だかつてない未曾有のものだと、そう思えるところまでいけたんじゃないだろうか。

 この世界のどこかの貴方の手に、偶然、この素読本が届いて欲しくて、それを目指してずっと力を尽くしてきた。でも、それもこれ以上は間に合わない。

 自分のいのちを、生きる可能性は、誰からも奪われやしない。諦めの無い世界で、私は貴方のいのちが生きたいと叫ぶ日を待っている。

素読とは何か

 「素読本」と聞いて、何を想像しますか?

 「素読」とは、簡単に説明するならば、「意味」を「理解」するか否かに関わらず、何度も何度も言語(或いは事象)を反芻し続ける行為のことだと言えるでしょうか。こうした行為は、日本では教育・文化などの面でとても重要な役割を担ってきました。言語分野に目を向けると、日本に伝来した仏教は、様々な変遷を遂げましたが、その中で重要な役割を果たしたのが経典の「素読」でした。平安時代以降は、教育の分野で儒学の「素読」が中心となり、兵法書や論語などの「素読」も非常に重要視されていました。

 しかし、そうした「素読」は近年「刷り込み教育」として見直しの対象となり、日常生活で「素読」を強いられる機会はほとんど無くなりました。未だに残っているものとしては、子どもの世代でいうと小学校で出される音読の宿題を口でブツブツ言い続けるくらいではないでしょうか。或いは好きな音楽のメロディーを真似して歌っている時や、スポーツで言えば野球の素振りのようなものはある種の「素読」とも言えるかもしれません。このように「素読」を広く捉えると私たちは「素読」的行為を常々行なっているようですが、特に「意味」の「理解」を伴わない「素読」については、より合理的・効率的な手法へと見直される流れが強まっています。

 どうして長い歴史をかけて培われてきた「素読」という文化が、どんどん消えていっているのでしょうか。そもそもなぜ、「意味」を「理解」せずに繰り返す「素読」が重んじられていたのでしょうか。それはただ単に科学や教育レベルが発達していなかったからだと片付けてしまってよい話なのでしょうか。「素読」が重要視されなくっていく背景で、この国に一体どんな変化が起こってきたのか、私たちは一体何を得て、何を失っているのか、この問いの答えは、本書を素読的に読み込み、何度も反芻することで、徐々に見えてくるかもしれません。

 一章ごとに何度も素読し、確かなものとして感じられるようになってから次の章へと進んでいくか、もしくは本全体を一気に何度も読み進めるか、ご自身の心地の良い方で本書をご活用いただければと思います。

 本書では、「父性」というテーマを軸に、たくさんの風景を描いています。言葉を「理解」しようとすると、よく分からないと感じることも多いかもしれませんが、よく分からないことに出会ったときに、「まだ見ぬ風景との遭遇」そのものを悦んでいただけたら、いつの日にか、限りない可能性と、微かな希望の感覚に触れられる時が来るかもしれません。もしも途中で「風景」として受け取ることに限界を感じたら、一つの「仮説」であると思って読み進めていただきたいと思います。

 ほとんどの場合、それぞれの言葉を使うに至った「過程(文脈や風景)」が存在します。「言葉」の縛りを解いて、そういった余白に向き合っていただくことができれば、読み終わった時により大きな変化が訪れるかもしれません。

 単に「理解しよう」とするのではなく、山登りをするイメージです。自分の人生の一歩一歩の歩みの中で、さまざまな風景に出会ったときに、この本が山頂で微かに灯る道標になることを祈ります。

 また、本書では「父性」や「母性」をはじめとして一般的には性別の意味合いを孕むと考えられる言葉がいくつか登場しますが、性の意味合いはあくまで歴史上の生物的観点としてしか参考になり得ません。また、タイトルにもある通り「日本」と「西洋」の対比が本書では何度も出てきますが、これもあくまで曖昧な概念の対比に過ぎません。このグローバル化した時代に、西洋と日本をキッパリ切り分けることは非常に難しいため、あえて曖昧な表現でぼかしておきたいと思います。「日本的父性は日本人が宿すもの」「父性は男性の話」「母性は女性の話」などといった「◯◯でなければいけない」といった話は一つとして存在せず、あらゆる境界を溶かしてもっともっといのちに根ざした思索をしていきます。

 まず第一章では、現代の問題意識を共有し、「父性」の骨格を捉えていきます。第二章では、何かをまっさらな状態から考えるための前提を共有して、脳みそを縛っているあらゆる「意味」を溶かすことを目指したいと思います。第三章で、ようやく「日本的父性」の風景を可能な限り共有し、第四章では「日本的父性」のこれからを探索していきます。そして全てを踏まえて、最後の第五章で手触り感のある希望を整理したいと思います。

 本書でなされるのは新しい概念の描画です。様々な文脈を「父性」という言葉に託して、その全てをもって一つの概念として整えていきます。しかし、あくまで言葉の一般的な定義は使う人々の使い方次第で変化します。大切なのはあくまで文脈を持って生まれた「概念」という「風景」です。それを表すためにどんな言葉が使われるかはそこまで問題ではありません。

 しかし、今回はより多くの方に届いてほしいという願いもあり、これまではっきり定義づけが行われてこなかった「父性」という言葉に一般化を託そうと考えました。本書の「父性」や「母性」はユングの示した父性原理や母性原理を前提にしたものではありません。そちらについて既に学習済みの方は、その概念から離れてから読み始めることをお勧めします。

 また、本書は自己啓発本や哲学書の類でもなく、誰かを気持ち良くしたり共感を求めるものでもありません。あえて言うのなら「素読本」です。読んだからといってすぐに何かが変わるわけでもなければ、寧ろほとんどの人にちょっとしたモヤモヤ感を感じさせてしまうかもしれません。

 本書はあくまでも「風景」であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。ふるさとの「風景」は、歳をとってから懐かしく思い出されることもあります。今、誰かが遺しておかなければいけない「風景」を圧縮することなく遺すのが、本書の使命だと考えています。その「風景」の先にある微かな希望の灯(ともしび)に触れていただけた時には、もうきっと、遥かな「大丈夫」が広がっていると思います。

 もしも本書を読み、ここで語られる「父性」や「日本的父性」の風景が多くの人の心の片隅に残り、いつの日にか、誰かが息をしやすくなったり、いのちが輝く、そんなきっかけになれば、もうそれ以上望むことはありません。

※ 本題へと入っていく前に、脳と心の準備運動をされたい場合は、「別添 第零章 まえがき」へとお進みください。特に著者のことをご存知ない方にオススメです。少し長いので、面倒な方は第一章へとお進みください。