被災地に赴き何を見たんだ苦しい人に君は苦しみの忘れ方を伝えるの?

2023年3月11日

 

「忘れないために」 とは

 

 忘れることのできる人のための言葉です

 

そう語った 女性の 眼の奥の 炎が

 

風の強い 春の夜に

 

心のなかで

 

決して 消えない 火となり

 

語り かけてくる

 

家族を 津波で 失ったことは

 

私という 記憶 そのものです

 

 

 和合亮一さんの詩。君が、もうそんな生き方はしたくないと願った、忘れるとは、一体何だったのだろうか。あれから十二年目の今日、僕がこの詩に目を留めたのは一体どんな偶然だろうか。

 

 あろうことか、東北の被災地に何度も赴き、被災地を繋げる活動をしていた君が、意気揚々と「もう忘れたの。私は忘れる天才だから!」と言うようになってしまった。あの時はまだそんなこと、ほんとうは違うとわかっていて、それでようやく、忘れることなく、生きてゆける灯台を見つけたのに、君はまた苦しみと感情に支配され、認識可能な煌めきに取り憑かれ、これまでに無いほど醜く「忘れる」を語り、ポジションをとりカッチコチに固まっていってしまった。それからの失われた時間は、紛うことなく君の認識世界の外で生きてるものたちに地獄を作り出した。

 君のそれはもう、新たな人格と見えて、また自分を分割し作り出し、「これに慣れたらきっとまたいつかそれはほんとうの自分だと思えるようになるはず」という緩やかな洗脳と何ら変わりない希望的観測に精神の安定を託すようになった。いつも通りがさらにも増して深刻化し、いのちの灯をズタボロに攻撃し、隠し続けているが、それに反して君の日々はどんどん煌めきが増えてゆく。

 

 君は一体、被災地で何をみたのだろう。誰と語り合ったのだろう。何を感じたのだろう。

 

 今日もオンラインで流れくる世間の香りには、オナニズムの中での「可哀想な人たち」に「共感」し、その苦しみを取り除いてあげるための活動をしている風に見せている人が溢れかえっていて、その人たちに共通する特徴は、自分の周りの誰かが誰かを傷つけていようと無関心で、自分がこれまでの人生の中で殺した人の、冷たい、冷たい肌には絶対に触れてこなかったといふことであろう。あの頃は君はそんな人間たちに直覚的であったし、まさか君自身がそんな人間にはなるまいと、まだ生きものとしての意地があった。

 

 だが、「今」の君は言うのだろうか。被災地の人に、言うのだろうか。

 

 「苦しみは忘れたらいいんだよ。忘れる方法を教えてあげるよ。私は忘れるプロだからね。君も早く忘れたらいいよ。難しい?そうかぁ。私はそれでとても楽になったし、今はすごく満足して生きているよ。でもね、無理しなくても、大きなことは願わずにね、現状に満足できる方法はまだあるよ。目の前にある小さなモノ・コトに意味を見出し、そしてそこから感情が湧き出てくるように意識したらいいよ。ほら。あの雲を見て。何かに見えない?すごいね!感動だね!こうやって小さなことに感動して生きるんだよ。気がついたらね。忘れていて、そして感情が安定しているはずだよ。精神が安定するようになったらね、あの時忘れなきゃいけなかった思い出も、自分の中でちゃんと理解して、受け入れられるようになるよ。ほんとふなんて、どうでもよくなるよ。それまでは少し心の片隅で罪悪感とかに苛まれるかもしれないけれど、まずは今、今を生きるんだ。きっといつか、大丈夫になるから。」

 

 綺麗なお話だ。とても、綺麗なお話だ。勇気も出てくる。あらゆる感動ドラマや映画、小説や自己啓発本の根底に書かれていそうな、綺麗なお話だ。

 

 「苦しくないこと」が人生のスタートだと思い、自分の認識世界の視点を変えたり、「≒デジタル要素」そのものを変異させてモノ・コトの捉え方を、自分や、自分の好きな人が生きるために都合の良い状態にして、その技術が上がっていくことを、「自由になった」と喜び、

 ある人はそれが楽しいかもしれない。あらゆる人はそれが当たり前かもしれない。君を苦しめ続けてきた人も、きっと勇気を貰える言葉だろうし、ひいては同じ言葉をどこかで言っているかもしれない。こんなことを言う人にだけは、絶対になりたくないと願った君の、あの瞳を、あの、あたたかかった手の温もりを、僕は絶対に忘れない。

 

 想像を絶するほどの痛みや苦しみの中で生きてきた人ほど、「苦しくないこと」が一つのゴールになり、そこに煌めきを見出すようになる。

 

 

わたしのこの両手で何ができるの

 

痛みに触れさせて そっと目を閉じて

 

心の静寂に 耳を澄まして

 

わたしを呼んだなら どこへでも行くわ

 

あなたのその涙 わたしのものに

 

 「あなたのその涙 私のものに」とするような、それだけでなく、その超越(融解からの気化)をもたらしてくれるような、ある種の父性を持った人がそもそもまず存在しない。であれば「苦しくないこと」が最高峰になってゆくのは悲しきかな自然な流れ。主観、自と他の区別、忘れるの癖づけ、。

 

 苦しみの連鎖は終わらない。

 

 社会の息苦しさを何とかしたいとか言いながら、自分が苦しみのチェーンの一部になっていることに無関心で、苦しい人のために何かしたいと言いながら、自分が苦しみのチェーンの一部になっていることに無関心で、もうそれに、「諦め」ている。

 

 ほんとふは、世界は平面じゃあないから、一筋の光の中にも、たくさんの矛盾を孕み、それはちゃんと循環して、豊かに広がっていくはずなのに、あなたの見える世界は、平面な喜びに満ち満ちる以外無くなってしまった。

 

 忘れるが癖になった人間は、例えとんでもない奇跡で灯台を見つけたとしても、偶然がたくさん重なると、また苦しみに飲み込まれ、全てが平面に箇条書きに並ぶ世界に戻ってしまうこともある。それは本当に怖い話で、ちょっとやそっとのことでその地獄さは想像し得ない。

 

 

 今日。あれから十二年が経った日。僕は今日も「忘れる」とか「忘れない」とかのもっとその先に、君のあの温もりを忘れない。

 

 

 

 灯は光っている。

 

 何が起きても、灯は光っている。

 

 諦めない君に、灯は宿っている。

 

itsuki minami