まったく売れなくても持続可能な花屋をやろうかと思い始めた。
2023年2月1日
都会を歩いていて、ふとお花屋さんの横を通り過ぎると、いつもなんだかこのまま通り過ぎてはいけない気がして、足を止め、数歩戻ってお花を見渡す。
お花は綺麗だ。美しい。
優しい。
オアシスのような場所だ。
足を止めた時、いつも初めはそんな気がする。
だけど、お花屋さんで、何度も風や水や香りを咀嚼すると、どうにも悦びがないことに気が付いてくる。
しっくりこない。
そこにある花の多くは、立派な根を持っていない。根を持っていない花たちが、ただ、色鮮やかに、そこに並んでいる。数日後に枯れている花が脳裏を鮮明に過ってゆく。
全部、枯れている。
一生懸命お水を変える人間がいる。そうすると、花は枯れるまで時間がかかる。
僕はいつも、店に身体を向けると、まずは根を持っている植物を探してしまう。一つもない花屋さんも、よくある。
小さな小さな鉢植えに、可愛らしく咲く花や、小さな小さな器に個性的に立つ松の木や、淡々といるサボテン。
そこにある小さな根は、土に触れ、包み、包まれ、生も死も溶け合い、その世界は遥かに広がっていく。もちろん、枯れたって、咲いたって、ちゃんと僕らは世界の一部となって、生きていくような、そんな気がする。
けれど、そのほんの少しの土も、「燃えるゴミ」のゴミ箱に捨てられたりする。ゴミは燃やされ、灰となって土となる。海の底に沈んだり、大地に還ったり、そしてまた何かの一部になってゆくのだろう。
僕らは世界の一部で、宇宙の一部、もしも人が火星に基地を作り移住したり、また別の星に移住して、それを繰り返していくのなら、それはなんだか鉢植えに移住する草や木花に似ている。宇宙の一部である僕らは、また、そのいのち一つ一つに宇宙を宿しているとしたら、
もしかしたら、あなたは、何かや誰かと合わさってようやく一つのいのちになるのかもしれないけれど、人間は都合よく認識をカスタマイズし、気が付くともう何にも触れられなくなる。燃えて消えるためにあるまるで機械のような「生」っぽい花屋の花たちも、知性があれば、認識論を語り始めるような気がする。触れられなくなって、虚構と化した「生」っぽい人間たちが、やはりいのちとなって、宇宙となって、またその一部となって、ありのまんま生きられるためには、環境が大切なのだ。その先には、「ほんものの大丈夫」のヒントもきっと待っている。
花が人間のために土から離れるのなら、「人間」は「社会」や「幸福」のために認識下で宇宙から離れていく。
それは環境が大知性を失っているからだということは、鈴木大拙、西郷隆盛はじめ多くの人が近代へのアンチテーゼとして投げかけてきた。
僕の大切な人も、空虚なスクリーンに取り囲われ、綺麗で、美しい景色だけを体現するしかない状況に陥っている。
そうだ。
いのちに誠実であること」それを一つ一つの鉢植えが体現しているような、小さな小さなお花屋さんをやろう。
小さな小さなお花屋さんを、あなたといつか、この世界の片隅に、この宇宙の片隅に、コンコン、カンカン、大切に、大切に、溶かして、抱きしめて、気化させられたら、きっとそれもまた宇宙の一部となって、過去の一部となって、未来の一部となって、あなたの一部となって、生き、輝き、そしてまた、宇宙となるんだろう。
この星では、風は吹くから、大丈夫。