「やりたくてもできない人のために」ってなに?

「やりたくてもできない人のために」ってなに?

よくね、「やりたくてもできない人がいるんだから」と言っている人がいます。

今回は、この考え方の「誤り」について書こうと思います。

「やりたくてもできない人のために」理論

例えば、「なんで勉強しなきゃいけないの?」とか、「なんでごはん残しちゃダメなの?」とか、「なんで生きなきゃいけないの?」とかを問うた時に、

「世界には勉強したくても学校にも行けない人がいるから」とか、

「ごはん食べたくても食べれない人がいるんだから」とか、

「生きたくても生きれない人がいるんだから」とかって感じに

「やりたくてもできない人がいるんだから」をあたかも誰の心にでも響くかのように言う人がいます。

「やりたくてもできない人」を想像して、「その人のために自分はやろう!」という考えに至れる人は、稀にいる「超優しい人」くらいです。楽観主義の“happy”を大事にして生きている人には効く言葉だと思います。あなたが、「やりたくてもできない人のために」をモチベーションに頑張れるならば、あなたはめちゃくちゃ優しい人だと思います。(優しいんかな…)

ただ、世の中のほとんどの人は、「やりたくてもできない人のために」はモチベーションにはならないと僕は思います。

僕個人としては、「やりたくてもできない人のために」は、「は?なにそれ?」って思います。

現実主義の、“interesting”を大事にして生きてる僕のような人からしたら、おそらく意味不明です。そんな理論全くもって通じません。

「勉強したくても学校にも行けない人」は確かに世界にはたくさんいます。ですが、今、私やあなた、私の子どもやあなたの子どもや、あなたの友人が、学校に行くことと、一体なんの関係があるのでしょうか?

「ごはん食べたくても食べれない人」は確かに世界にはたくさんいます。ですがそれが今、私が、あなたが、目の前のごはんを食べることと、なんの関係があるんでしょうか。

「生きたくても生きれない人」も確かに、世界には、そしてあなたの身近にもきっといます。だからと言って、あなたが今、生きることに、なんの関係があるんでしょうか。

学校に行きたくないと思う本質的な理由から目を背けて、全く違う世界にいる他人の苦しみを示すことによって、目の前にいる子供に学校に行く意味を説く。これが僕はあまりにも酷いことのように感じます。そして、そこでまるで不幸な人のように語られる「他人」に対しても、非常に失礼だと思うんです。

目の前に嫌いな食べ物があったり、量が多すぎて食べれなくなったりしている人に向かって、「世界にはごはんを食べたくても食べれない人がいるんだから、食べれることは幸せなのよ。ちゃんと食べなさい。」とか、ほんまにわけがわかんない。

何かに苦しんだり、生きる気力を見失ったりしてる人に向かって、「世界には生きたくても生きれない人がいるんだから、その人の分まで生きなきゃ。」とか、頭おかしいんか?どんだけお花畑の中で生きてんだ?

たぶんなんですが、「やりたくてもできない人のために」を元気に語る人は、目の前に、苦しんでいる人が現れたことがないのか、その人に親身に寄り添ったことがないのか、自分が苦しんだことがないのか、そのどれかだと思うんですね。

現実主義で“interesting”を大事にしてる僕なんかからしたら、「やりたくてもできない人のために」は、無責任で他人事で深みの無い、的外れな考えです。

僕は、悩んでるときにそんなこと言われても全く心に響きません。「やりたくてもできない人がいるがいる」・・・だから?って思います。「(自分が勝手に頭で作り上げた)他人の不幸」を、自分自身のモチベーションに変えられる人は、とんでもないおせっかいで、優しい人だと僕は思うのです。決して、悪いわけではありません。むしろ褒めています。嫌味でもありません。まあ、それを「優しい」と言うのかは、分からないが…。自分の人生を自分が勝手に作り上げた「不幸な人間」のために生きるなんて「優しい」を超えてると思うけどね。

ただね、「やりたくてもできない人がいるんだから」を他人に言うのは、完全に間違っています。あなたがそれをモチベーションにできるのはとても素晴らしいことだと思います。おそらくあなたは、「やりたくてもできない人」がとても身近にいて、ちゃんと知っていて、その人のことを直接的に想っているから、モチベーションに繋げることができるのだと思います。だからね、「やりたくてもできない人」が身近にいない人に向かって、「やりたくてもできない人がいるんだから」とか言うのは、とても的外れですし、きっとその人はそれ聞いても全く自分のこととして感じられないと思いますよ?

僕は、「やりたくてもできない人」とたくさん会って、話して、知って、その上で、この結論に至りました。

「やりたくてもできない人のために」という考え方は、僕の中では、破綻しています。

そんなお花畑ルンルンな考え方は、僕の心を癒すどころか、不快にします。

あんたはあんただ。一生懸命あんたを生きればいいんだ。あなたの大切な人が、「やりたくてもできない」で苦しんでいたり、亡くなってしまったりするならば、「その人のために」ではなく、「その人を想って」生きればいい。その人を心で生かし続けて、生きればいい。ただそれだけでいい。「やりたくてもできない人」も、亡くなった人も、自分のために生きられるのなんて、だーれも望んでねえぞ。

そんな考え方、破綻してるよ。

でもね、「やりたくてもできない人がいる」ということを“知ること”はとても大事だと思います。それを見ることも教えることも大事だと思います。

でも、「その人のために」は、、、いや、もうこの際言うよ。間違ってる。うん。間違ってるよ。せめて、その人のことを、想ってやっていれば、それだけで、いや、それが、いいんだよ。その人のためになんて、あんたは一体誰なんだ。

「やりたくてもできない人のために」は、おかしい。

僕はそう思います。

あなたは、あなた。

想え。

あなたは、あなた。

今を大事にしろ。本質を見ろ。

やりたいならやれ。やりたくないならやるな。

苦しみの本質的原因に向き合ってやれ。

一生懸命、向き合ってやれ。

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