結局、年齢による差って何だろう?

結局、年齢による差って何だろう?

「若いのに凄いね!」

なんでそんなこと言うの?

最近ただ生きているだけなのに、大人の人に会うと、よく言われます。

「まだ19歳(20歳)なのに、そんな活動をしてるなんてすごい!」

「若い人が、頑張ってるのが嬉しいから応援する!」

「若いのにしっかりしていて凄いね!」

とかとか、頭が痛くなるほど聞かされます。

この人たちは、勝手に、自分と僕を比べて、あるいは自分の周りと僕を比べては、全く本質的でないところを褒めます。

僕の人生を知り尽くしてるわけじゃないのに、なんでそんなこと言うの?

せめて僕と全く同じ人生を歩んで(同じ経験をして)から言ってください。
「私と全く同じ環境で育ったのになんであなたはそんなに○○が凄いの」と。
同じ人生を歩んでいない時点で他人と比べることなんてないはずです。

されど、日本の教育や空気感などがその人たちをそうしているので、特にその人たちを責めるつもりはないのですが、なんだか気持ちが悪いとは思います。

貴方は貴方でいいじゃない。

まず結論として、自分を他人と比べる必要もないし、他人と競う必要もさらさらないはずです。

でも、そういう人たちは、なぜか、実際は存在しない敵と戦って自分を苦しめて、さらには周りも苦しめているんです。

「私が20歳の頃なんてそんな何も考えてなかったよ。」とか、

「その年齢で頑張ってる人を見ると頑張らなきゃと思うよね。」とか。

知らんがな。

貴方は貴方でいいじゃない。

16歳だろうと、45歳だろうと、何が違うんですか。何が違うんですか。

貴方は貴方で、死ぬほど、素敵ですが、、、?

頑張ってる人を見ると元気を貰えるのは分かるけど、そこに年齢なんて驚くほど関係ないでしょ。

あなたが思っている「差」は実は無い。

時代が進めば進むほど、低年齢でも膨大な情報量を簡単に得られるようになっているし、低年齢でも場所を移動してバラエティ豊かな経験をするのも容易になったのは明らかです。

日本から出たことがない45歳と、いろんな国に足を運んだ16歳の差を考えてください。

何も考えず生きている45歳もいれば、めっちゃ考えて生きている16歳もいるし、逆も然りです。

特にたいした苦しみも味わわずに生きてきた45歳もいれば、たくさんの苦労を重ねた16歳もいるでしょう。

「たくさん経験を積んだ人は偉い」みたいなバカなことを言う人もいますが、経験を積めば積むほど、見えなくなるものだってあるし、忘れてしまうことだってあります。

子どもだからこそ感じて、考えられることも山ほどあります。

10回経験してやっとできるようになる人もいれば、1回経験しただけでできるようになる人もいます。

10回経験してやっと何かを見つける人もいれば、1回だけでとんでもない発見をする人もいます。

10回経験しても何も感じず考えない人もいれば、1回経験しただけで心をめちゃくちゃ動かしてめちゃくちゃ考える人もいます。

年齢なんて、クソほど関係ないんです。

そもそもこれにすら気が付いていない人もいますが、ここはまず前提です。

年齢を気にする人は、「個性を認める力」がないのだと、早く気付いた方がいいと思います。

では、年齢の差が確実にもたらす「差」とは、結局のところ、一体、何なのでしょうか?

年齢の差が生む「明確な差」

僕が現時点で、これ重要だなぁと思う「差」はこれです。

「死と接する機会」

の数の差です。

さっきも言ったように「経験の差」が、年齢によって必ずしも差があるわけではないし、差があっても経験が多いからと言って必ず何かが良くなるわけじゃないでしょう。

「エネルギー」のような身体的、体力的な老化による差も、あることはあれど、歳をとってもエネルギッシュな人がいるのも事実なので、確実に差が出るとは言い難いでしょう。

というわけで、確実な「差」があるとすれば、もうこれしかないわけです。

「死と接する機会」

これは自分ではコントロールのできないものです。年月を経るごとに自ずと増えてしまうものです。ここがポイントです。これは個性を超えてくるわけです。

そりゃ勿論人によって差はありますが、16歳の人と、45歳の人では、「死と接した機会」の数は、ほぼ確実に差があるはずです。45年も生きてれば、親が死んだり、周りの人で死んでしまうことも何度も経験するでしょう。

「死と接する経験」は、その人の心に大きな爪痕を残すと考えています。

歳を重ねた人間には、「渋み」や「重み」が出てくると僕は思っています。

人間の「渋み」がどこから出てくるのかは、僕にはまだはっきりとはわかりません。

でも、僕が、「うわ、この人の言葉の重みえぐい」とか、「この人はすげえわ」と思う人には「渋み」ががあります。

僕は直感的にその「渋み」に「死と接する機会」が関わっているのではないかと感じるのです。

人は、生きています。生きている生き物です。そんな人間にとって、「死」は、大きな大きな驚きです。苦しみです。悲しみです。辛さです。

つまり、僕が「若いのに凄い」としたら、たいして「死と接する機会」が多かったわけじゃないのに、「いつ死ぬか分からない」とそれなりに本気で思っていることです。

皆さん。

そろそろ圧倒的にダイバーシティ(みんなの個性)を認めていく時代です。

別に若かろうと、老いてようと、一生懸命生きていたら、どれだけ素敵なことか。

お金があろうとなかろうと、知名度があろうとなかろうと、フォロワーが多かろうと少なかろうと、実績があろうとなかろうと、「差」なんてないのです。

みんな違ってみんないいんだから、まじで。

若いからすごいとか、年老いているのに凄いとか、ほんまにもうやめませんか?

行動力が凄いと思うなら、「行動力が凄い!」と褒めてあげて下さい。

視野が広いのが凄いと思うなら、「視野が広くて凄い!」と褒めてあげて下さい。

ただ凄いと思ったことを褒めたらいいし、思わないなら褒めなきゃいい。

そこに「若いのに」とか、そういう言葉はいりません。

素直に個性を認めていこうよみんな。

個性を超えて自然に人間の渋みを増幅させる何かがあるとすれば、それは「死と接する機会」ではないでしょうか

あなたはどう思いますか?

(あと最近もう一つ重要だと思う「差」は、「苦しみのレベル及び経験数の差」です。)

社会系カテゴリの最新記事