なぜ“学ぶ”のか

なぜ“学ぶ”のか

まず初めに理解しておいてほしいのは、僕は未熟者であるということです。だからどうか僕の発言は、ただの考える一材料にしてほしいのです。僕は学び続ける葦なので、常に考えも更新されていきます。当ブログの記事は今現時点での僕の考えを書いているだけです。

JICA職員の発言に見る勘違い

先日、ある青年海外協力隊の方が、SNSでこんなことを言っていました。

「途上国の教育現場で一番優先的にやるべきことは、環境を整えてあげることだと思う。文字が見えない黒板、全員分ない教科書、文房具などなど。ちなみに算数の時間、日本みたいに算数セットがないため、石ころを代用している。(写真付き) やはり教育への投資が国の発展には必要だ。」

僕はこの発言を見てかなり驚きました。ここまで、考えが浅いのか、と。超偏見ですが、基本的には、「青年海外協力隊で働いている人は考えが浅い」と、SNSなどでのいろんな人の発言を見たり、最前線で動く人の話を聞いたりして、思っていましたが、この発言はちょっとさすがに驚きました。

「国の発展」とは一体。

まず、一番に疑問に思ったことは、「国の発展」ってなに?ってことです。この方がどんなことを「国の発展」と呼んでいるのかは分かりませんが、多くの人が、「国の発展」というと「GDPの成長」だとか「貧富の差の解消」だとかなのかなと思います。まず、絶対に分かってなきゃいけないことは、「幸せ」は世界中、国によっても、地域によっても、宗教によっても、はたまた人によっても、それぞれ違うのだということです。「日本のように、皆が教育を受けられて、選択肢が広がって、やりたいことができて、正しい道を考えられて、皆が最低限生きていけるのが幸せだ。」と思って、「それができてない国は教育に力を入れなきゃいけない」という超単純押し付け思考に陥るわけですが、なんでそれが世界中のみんなに当てはまると思うんでしょうか。僕には甚だ疑問です。

もっと身近な例で言うと、優秀な大学を卒業し、一流企業に就職し、子供を持った親がいたとしましょう。この親は、一流企業に就職し、家族がいて、生活に困らない、これぞ幸せだと思っています。それはなんら悪いことではありません。最高です。でも、それを他人に押し付けようとしたら話は別です。生活に困らないためには一流企業に就職すべきだ、一流企業に就職するためには一流大学に行くべきだ、一流大学に行くには一流高校に行くべきだ、それが幸せに繋がる、とこんな感じで信じこんで、自分の子どもにそれを押し付けます。小さい頃から塾に行かせて、成績が悪かったら叱り、勉強の邪魔になるものを無くしていき、勉強に必要なものはなんでも買い与えます。

はっきり言って、上の考え方は、これとそっくりです。

自分が生きてきた環境を幸せだと思っているから、それはつまり誰にでも共通する幸せだと思い込み、押し付ける。

なんだこりゃ。「勉強するのは視野を広げるためだ。」と言う人がいますが、視野を広げても、広がった先に見えたモノを自分と違うから不幸だと思いあがるんだったら、勉強なんてしないほうがいいと僕は思います。(まあこれはメディアと間違った教育の結果なので仕方ないのですが…)

そもそも言うと、「他国の国の発展」にとやかく言う権利は、あなたには、無いと思います。もしもあなたが、そこで永住権を取得し、人生かけてその国の人々と寄り添っていきたいというくらいの覚悟があるならば、「他国の国の発展」を語ってもいいとは思いますが、どうせ数年でいなくなるあなたが、一体どんなに無責任に「国の発展」とやらを語ろうか。

大切なのは、「国の発展」なんぞを部外者が無責任に語ることではなく、目の前の「人」を見て、目の前の「人」を感じて、目の前の「人」と寄り添って、目の前の「人」と支え合いながら生きることです。そこには勿論国境の壁も、国籍の壁も、人種の壁も、肌の色の壁も、地位の壁もありません。「人」と「人」ですから。

無いからこそあるに目を向けれん者が教育支援していいのか

次に、「文字が見えない黒板」はなぜダメなのでしょうか。文字が見えたほうが、授業もはかどるし、席が後ろの子もちゃんと勉強できるし、そうなるとより多くの子がより明確に教育を受けられる。それは間違いないと思います。では聞きますが、「文字が見えない黒板」だからこそできる教育はないんでしょうか。私たちは、「文字が見える黒板」で教育を受けてきました。だが、そんな私たちには、「文字が見えない黒板しかないときにどうしよう」と考える教育機会はありませんでした。「文字が見えない黒板」は、「考える能力」「発想力」「想像力」「創造力」これらを磨けるチャンスではないでしょうか。自分たちで黒板の代わりになるものを作ればいい。「いくらあげるから、これでもっといい黒板を自由に作ってください」という問いを子供に投げかければどうでしょう。黒板をあげるんじゃなくて、そのお金を出しましょうよ。黒板を買おうという子もいれば、作ろうという子もいるでしょう。これ、これこそが、教育じゃないんでしょうか?じゃあどうしたらいいと思う?と考えさせるのが、教育ってもんじゃないでしょうか。

次。「全員分ない教科書、文房具」。これは何がダメなんでしょうか。一人に一冊ずつ教科書があれば、家に持って帰って宿題ができるし自主学習もできるし、書き込みも自由です。みんなに文房具があれば、みんなが自由に絵を描けるし文字を書けるし正確な図も書ける。それは間違いないと思います。でも、じゃあ聞きますが、「全員分ない教科者・文房具」にしか生み出せない教育機会はないでしょうか。教科書をみんなが持っていないなら、共有しようという発想が生まれます。足りない人には分けてあげるという心が生まれるかもしれません。教科書がないから友達のを学校で一生懸命写して家に帰っても勉強できるようにとするかもしれません。そしたら文字を書く量が増えるし、文章をまとめる力も増すかもしれない。教科書をあげるのも一つの教育なのかもしれないが、教科者がないならどうするかを考えさせる方がよっぽど大切な教育に感じます。

次。「算数セットの代わりに石ころを用いる」。これは何がダメなんでしょうか。算数セットがあったほうが、わざわざ数字を石に書かなくていいし、分かりやすいし、はかどります。それは間違いないでしょう。でも、算数セットがないおかげで、石を拾いに行くことができました。綺麗な石を集める喜びも生まれるかもしれません。教室が綺麗な石で溢れる日が来るかもしれません。なあ、教育ってなんだ?

モノをあげるのが教育ではない。便利にしてやるのが教育でもない。この方は教育とは何かをどこまで勉強し、考えたことがあるのでしょうか。

あんまりにも考えが浅い。「JICAは押し付け支援だ」と言われちゃうのも無理はないと感じます。

その環境にはその環境の、その人にはその人の「教育」があり、「幸せ」があるのです。もう一度言いますが、大切なのは、目の前の「人」を見て、目の前の「人」を感じて、目の前の「人」と寄り添って、目の前の「人」と支え合いながら生きることです。

この考え方は「国際協力・社会課題」の分野だけでなく、全ての人、全ての親に必要な重要な考え方だと思います。

なぜ“学ぶ”ことが大切なのか

では、「教育」はなぜ大切なのでしょうか。人間はなぜ、学ばなければいけないのでしょうか。

これもまた、答えのない問いではあるのですが、一つ僕が思うことがあります。

それは

「学んできた量、考えてきた量、それによって身についた知識や技術の量は、信頼度に比例する(かもしれない)」

ということです。

これは海外に行くととても感じることなのですが、どんなに思いやりがある人でも、全く学が無いと、考えられないような選択を何の悪気もなく提示してきます。それでもこの人は一生懸命この人なりに考えてくれてるから、と思って許しても、全く失敗から学ばず、とんでもないミスを繰り返し続けると、どうしたって頼めることが減ってきます。しまいには、誰からも頼られたり、何かを任せられることが無くなってしまいます。居場所を失う可能性も出てきます。

人が人と支え合いながら、人のぬくもりに触れ、人間らしく生きていくには、人からの信頼は、とてつもなく大切になってきます。人には居場所が必要です。自分がここにいていいんだと感じる瞬間はいくつもあると思いますが、その一つに、誰かから頼られる、信じてもらえる、ということがあると思います。

より多くの分野に詳しければ、より多くの仕事を頼まれる可能性が増えます。より多くの言葉の引き出しを持っていたら、書きものや演説を頼まれるかもしれません。より多くの芸を持っていたら、遊びの誘いがたくさん来るかもしれません。無論“学ぶ”とは机上の勉強だけではなく、スポーツでも芸術でもなんでも“学ぶ”です。

「学ぶ」が「信頼」を生み出すというこのカラクリに気付けた者は、もうすでに「学ぶ」をひたすら行っています。

他にも「なぜ学ぶことが必要なのか」の答えはたくさんあり、人それぞれの考えがあると思います。全て間違いではないし、その人にとっての正解です。ただ、この「学ぶが信頼度に比例する」という考えは、より多くの人に共通する普遍の答えに限りなく近い気がするのです。

ただ、僕が(かもしれない)と付けたのは、例外があるからです。どんなに学がある人でも、人のことを簡単に裏切ったり騙したりする人に関しては、この考えは当てはまらないからです。そんな人そもそもどうしたって信頼なんて誰からもありませんし、根本的に何か違うので分かりません。

ただそんな人でない限り、「学ぶ」が「信頼度」に比例して、居場所を作ったり、人間が人間らしく生きる手助けになったりするということは、言えるのではないでしょうか。

子供に「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞かれたらなんて答える?

僕は子供に「なんで勉強しなきゃいけないの~?」と聞かれたらこう答えます。

「周りに、家族や友達がいてくれるのが、当たり前だと思ったら大間違いだよ。家族はいつみんな死んじゃうか分からないし、友達はあなたが必要としても、あなたのことを必要としなくなったら周りからいなくなっちゃうかもしれない。あなたは誰も頼る人がいなくなって、一人ぼっちになっちゃうかもしれない。その可能性はすごくあるんだよ。でもね、勉強して、たくさんのことを学んで、たくさんの人の考え方とか、行動を知ることで、人が望むことをよりできるようになるし、たくさんの知識や技術を知ることで、あなたを必要としてくれる人がたくさん周りに集まるようになって、あなたは人から頼られたり信じてもらえたりすることが増えるかもしれない。それって、とっても嬉しいことだとは思わない?まずは人が必要としてることは何かを考えるの。そしてそれについて学べばいいの。」

勉強するべきものを見分ける力

もしもあなたが、「いやいや、勉強してきたけどそんなん感じた事ねえよ」と言うのなら、あなたが今までしてきた勉強は、人からあまり必要とされない勉強だったということではないでしょうか。特に学校の勉強なんて、ある程度以上は社会に出てからほぼ必要とされませんし。そういう人は、「これからの時代何が必要になるか」、はたまた「どんなことで困ってる人がいるのか」なんてことを考えて、その分野を勉強し始めたほうがいいと思います。

「教育支援」は必要か

僕は国際協力で「教育支援」をするのはとてつもなく意味のある尊いことだと思っています。それでも僕は、その理由が、「その国の発展のため」だとか「将来安定して暮らすため」だとか「より裕福になるため」だとか、他人が無責任にそんなことを言ってやるのは、とんでもないことだと思うのです。「教育支援」は目の前の一人の人が、人間らしく、温かみを感じ、人を頼り、人から頼られ、支え合い助け合いながら生きることができるように、その手助けの一環としてやるべきだと思うのです。

学び続けたいと僕は思う

日本人の多くが、なぜか大人になると勉強することをやめてしまう、と言われています。その人たちはよく「老害」とバカにされています。僕は、学ぶことがとても価値のあることだと思っているので、いくつになっても勉強し続けたいと思っています。そして、僕はとてつもなく孤独を感じやすい人間なので、より人に必要とされたいという煩悩をエネルギーにして、学び続けるのです。

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