夢へと続く道1~インド時代~

夢へと続く道1~インド時代~

たくさんの人に、「結局君は何がしたいの?」と聞かれるので、自分の夢を書こうと思います。

ちょっと昔話からスタートします。

今回はまず夢を持つまでの過程、第一弾で、小学生の時のお話を書こうと思います。

小学生時代inインド

僕は小学校3年生から、6年生まで4年間、インドに住んでいました。

4年間ニューデリー日本人学校に通っていたのですが、この4年間は人生の中でも、とてつもなく楽しく、世界を広げてくれて、人生を形作る心の基盤を僕に与えてくれた、そんな光り輝く期間でした。

良かったことはいくつもあるのですが、その中からいくつかご紹介。

不自由な中での自由

まず、自由でした。

インドでは、ちょうど僕が行く一年前に大きなテロがあり、少し治安に不安のある時期でした。大使館からは、現地邦人は極力外を出歩かないように、なるべく車で移動するように(邦人家族にはだいたい自家用車とドライバーとお手伝いさんと門番さんがついていた。)、と言われたり、日本人学校でも、スクールバス(毎日30分以上かけてバスで通学)は、カーテンで中を見えないようにしたり(日本人が乗っているとばれたら襲われるから、らしいが、カーテンしたら逆にばれんちゃうん?とその頃の僕は思っていた。)、拳銃を持った人が入ってきたときの避難訓練(本当に拳銃を持ってスタッフが黒い覆面をして予告無く入ってくる。その恐怖は尋常ではない(笑)ただ、面白いのは、そういう時に避難するシェルターのようなものがあるのだが、鉄の扉とか言いながら、実はただのペンキを塗っただけの扉。)があったり、そういう意味では、不自由もあったのですが、それ以上に日本ではない自由がありました。

学校のスクールバス

僕は、「外を出歩くな」なんて無視して、近くの家の友達と、外でたくさん遊んでいたし、自転車で少し離れた友達の家に行ったり、よくしていました。日本では当たり前だけど、あの環境の、あの年齢の僕には、そういった一つ一つのことが、とんでもない冒険のようでした。それが、楽しかった。たぶん、小学生の日本人で、チャリンコでインドの町を颯爽と走ったのは、僕が初めてです。自転車で走っている時に野良犬に追いかけられたり、公園で野球してたら野良犬に追いかけられたり、まあ、あの頃のぼくの最大の敵は、野良犬でした。

当時、日本人学校は、日本の学校みたいに、変なルールや責任のようなものが無くて、子どもが生きやすい環境でした。放課後はプールで自由に遊べたり、体育館もグランドも使い放題だし、とにかく「もの」や「環境」が限られているので、自分たちでいろんな遊びを考えて、青空の下、楽しく生きていました。

ニューデリ日本人学校校庭
ニューデリー日本人学校校庭

クラスは一学年が10人から30人と、とても少なかったので、とてつもなく仲が良く、今でもあの時の友達とはよく会いますし、過酷な環境や、同じようなアウェーな場所で、長すぎる時間を一緒に過ごした宝物たちは、一生の付き合いでしょう。

その頃の僕はと言うと、まあ、頑固で、人見知りで、変なプライドをたくさん持っていて、今とは全く違う少年でした。「笑わない子」とよく言われていました。本気で将来の夢はプロ野球選手だと言っていた僕は、四年間、野球を教えてくれる人もいなければ、日々コツコツ努力しない自分を見て、薄々と、「この四年間は人生の休憩期間なのかもな」とか、「プロ野球選手にはなれないのかな」とか、しみじみと考えていました。そのあたりの思考感覚は今と大して変わっていないのですが、なにせあの頃は外見が「子供」だったので、周りからは、「偉そう」とか「かわいくない子」とか、まあ、よく言われていましたね。僕からすれば、不思議で仕方なかったのです。「みんなは、僕みたいにいつも何かをこんなにも考えたり、しないのかな。僕だけなのかな。周りの人になってみたいな。」そんなことをずっと思ってました。(笑)

世界の車窓から

次に、日本では見られないものを毎日見ることができたということです。

スクールバスで学校に行くとき大きなスラムの横を通ったかと思えば5分走ったら、大きな高級ショッピングモールがある、貧困と裕福が隣り合う、そんな世界の両極を毎日見ていたのです。

一つとても印象に残っていることがあります。

ある交差点の道路の端で、一人で寝ているやせ細ったおばあさんがいました。最初の数日は、毎日体の向きが変わっていたので、生きていることは確かでした。しかし、数日後から、毎日同じ姿勢で、寝っ転がっていて、変わらないのです。そしてまた数日後のある日、そこから、消えていました。

毎日ほんの数メートル横をスクールバスで通り、窓一枚を挟んだ、向こう側にそんな世界を見ていました。近いようで遠いようなそんな感じでした。

他にも、車で赤信号を待っていると、コンコンと窓をたたいてくる物乞いの人が、だいたいどの交差点にもいました。その中には、腕がない、足がない、目がない、小さい子供を抱いている、子供から老人までといった、人がいて、その頃の僕は、とても直視できませんでした。親から、「あの人たちの中には、地方から出稼ぎに来て、駅で稼げる方法を教えてやるって悪い人たちにつかまって、その人たちに物乞いをさせられたり、もっと酷いと、同情を買うために、足や腕を切り落とされたり、そんな人たちもいるんだよ。」と、聞かされた時は、幼いながら、世の不条理さに衝撃を受けました。

多国籍野球での衝撃

そして、僕の夢に一番大きな影響を与えたのが、この多国籍での野球です。

アメリカの大使館の中に、大きな野球場があって、インドから壁一枚隔てたその中は、まさに「アメリカ」でした。毎年冬に、そこで子供たちのリーグが開かれます。そこには、日本人、韓国人、オーストラリア人、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人、インド人など、ありとあらゆる国籍の、野球が好きな子どもたちが、集まり、硬式球と、金属バットを使って、上のリーグでは、かなりレベルの高い野球も繰り広げられます。野球が比較的うまいのは、アメリカ人、韓国人、日本人、そして一番うまいのが、なんと、インド人でした。

インド人の動体視力と、球の速さ、足の速さ、身体能力は、とてつもなく抜きんでていました。普段からクリケットをしている彼らは、野球もやろうと思えばかなりの可能性を秘めているのです。しかし、話を聞いて驚きました。その子たちの多くは、スラム街から招待された子たちで、普段は、親の仕事の手伝いをしたりで、もちろん野球なんてやる道具もないし、学校に行くのもままならない、そんな環境に生きているというのです。可能性を秘めた彼らには、スポーツを本気でやる環境などないのです。

その頃の僕は、毎日スラムを見ていても、物乞いの人を見ても、スラムに住む子と野球をしても、そんなに自分のこととして、感じることはありませんでした。あくまで、外の世界、他人の世界だったのです。

しかし、ここでのこういった経験が、その後の人生にとても大きく、響いてくるのです。

~中学生~へと続く

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