天津飯のおはなし

天津飯のおはなし

天津飯のおはなし

一昨日僕は、お昼ごはんを餃子の王将で食べた。王将ではいつも、何を頼むか悩んでしまう。この日は初めて、「天津炒飯」というのを注文した。

出てきた。見た目は普通の「天津飯」や。レンゲですくって食べる。あんのほんのりとした甘みの後に、たまごの味がして、最後に炒飯の味が口いっぱいに広がった。

美味しい。

これを食べながら、考えたことがある。

何かって言うと、「僕は天津飯のたまごでいたい」というお話。

とっても難しい話だから、天津飯に例えて、話していこうと思う。

これは僕の心の話なんだけど、どんなことについても、追い求め続けると、「無」にいきつく。世は「無」。何をしようが意味なんてないし、もちろん正解も不正解も存在なんてするはずがないし、そもそもこういう「言葉」でさえ、なんの意味もない。全部同じで、全部意味などなく、全部答えもなく、全部「無」。「無」でしかない。

その「無」っていうのはブラックホールのような感じで、暗い黒い穴のような感じで、永遠に続く明かりの無いトンネルのような、とんでもなく怖くて苦しいものなんだ。辛くて苦しくて、辛くて、仕方ない。

「生きる意味」なんてないよ。全てのことに意味なんてないからね。「無」だからね。

この「無」ってのに、めちゃめちゃ目を向けてしまう人っているんだ。意味が分からないかもしれないけど、どう頑張っても、いや、頑張れば頑張るほど、この「無」が目の前の世界に現れてくる。ずっとずっと、苦しい。そういう人がいる。

天津飯で言うとね、中の「ごはん」の部分が、「無=苦しみの根源」だとしよう。ほとんどすべての人は、「ごはん」は見えないように、「たまご」がのっていて、さらにその上に「あん」がかけられている。「ごはん」に目を向けないで、「美味しい」と感じることができる。

でも、世の中には、「たまご」が「ごはん」の上にほとんどのっていない人がいる。その人は、常に、「ごはん=無」と向き合うことになる。苦しくてしかたないんだ。

「ごはん」も、それが炒飯だとしたら、それだけで、「美味しい」と感じることもできるんだ。そう感じることができる人もいるんだ。それはそれで美しいかもしれない。

僕はどうかというと、天津飯作った人が微妙に料理が下手な人で、5㎝に一か所くらい必ず「たまご」が途切れていたり、穴が開いていたりして、中の「ごはん」が見えるようになっている。僕は、何をやろうとしても、何をやっていても、「ごはん」を見てしまうんだね。

僕は、「ごはん」だけの「美味しさ」も、「たまご」と「ごはん」がかけ合わさった「美味しさ」も知ってる。その両方を味わいながら生きているんだ、生きていくんだ。

そんな僕は、思うのです。

「ごはん」だけでなく、「たまご」の美味しさも、知ってほしいと。「たまご」と「ごはん」と、混ざり合うことで生まれる複雑だけれど、とっても単純な「美味しい」という純粋な気持ちも、知ってほしいと。

「たまご」で包まれた天津飯は、中がただの「白米」であろうと、「炒飯」であろうと、ただただ単純に「黄色い丸いもの」である。でも、食べれば今まで見えていなかったところの味と合わさって、「美味しい」と思えるんだ。

中が「白米」なら、それだけでは味なんて「無」に感じるかもしれない、でも、「たまご」で包まれ、さらにあんと一緒に食べれば「無」が感じられなくなる。中が「炒飯」なら、見た目がたまごの黄色一色に単純化されるのに、美味しさは増すのだ。

世の中はもっと、単純なんだってこと。単純なんだってこと。

「ごはん」が「苦しみの根源」なんだとしたら、「たまご」は何?って思うかもしれないから、まあ、あえて言うなら、「単純な何か」かな。「感情」なのか「本能」なのか、「欲」なのか、なんかそんなような感じで、でもそうではなくて、けど、「単純で純粋な何か」。

どんなに「たまご」で「ごはん」を包んでもね、レンゲですくったら、「ごはん」も見えちゃうんだよね。でも、食べたら、ただ単純に、純粋に「美味しい」って思えるということ。

僕は、「ごはん」を包める「たまご」でありたいということ。

もしくは、「ごはん」に「たまご」をのせてあげる人でありたい、ということ。

大丈夫だっていうこと。「たまご」で「ごはん」を包んでいてもいいんだっていうこと。

それを伝えられるような、伝え続けられるような人でありたいと、強く思うのです。

これよりもより深淵なことを考えていきたければ、こちらでも覗いてみてください。

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