SNSをしっかり諦める

SNSをしっかり諦める

どうも。小さい頃のあだ名が「たーぼう」だった、多忙を極めるなんくんです。

今回の話はちょっと難しく感じるかもしれませんが、ちょっと考えてもらいたいと思います。長いけど、ほぼ確実に新しい示唆を得られるから、ほんまに読んでほしい!

総アーティスト化Project

さて、コロナウイルスで、自粛の生活が続き、日常は大きく変化し、皆、悶々とした表現しがたい重い空気に飲み込まれ、目の奥の輝きを失っているように思います。

コロナウイルスによる抑制はまだあと1~2年は続いていくでしょうし、その中でどうしようもない悲劇も沢山起こっていくでしょう。

人が人の温もりを感じることができず、欲し、欲し、どんどん社会は重い空気に包まれていきます。このジレンマから、抜け出すことは難しいのかもしれません。

そんな、重い空気が混沌としているこの日常で、僕らができることは何でしょうか?目の奥に輝きを取り戻すために、できることは何でしょうか?

今できること、、、家で勉強したり、一人で外に走りに行ったり、オンライン通話で友達と話したり、そのくらいでしょうか?

その中で僕が、可能性を見出したのは、「散歩」でした。

普段ならジョギングなどしない人が、外出自粛による運動不足を解消するために、目的を設定することもなく、ジョギングをしたり、ちょっと散歩をしたり、そういったことが急増しています。

そんな今だからこそ、できることがある。

これまでなら、なんとも思っていなかった、日常の風景の中にある「味わい深さ」に、気が付けるチャンスです。

道端のガードレールのへこみ、雲の形、コンクリートの隙間に生えた孤独な雑草、人慣れした猫、水溜まりに映る人の足、何度も踏まれて消えかかった横断歩道の線、夜中の線路に反射する月の光、一生懸命働くアリ、誰もいない商店街の寂しさ、公園で遊ぶ子供の影、、、

この全てに、実は、「味わい深さ」が、溢れているんです。

その背景に、深い物語があるもの、

何度も踏みつけられて、寂びたもの、

何かが欠けていて、侘びているもの、

これらの美しさに、心を躍らせる感性を爆発させたなら、一瞬でも、みんなの目に輝きが戻るんじゃないだろうか!

ということで、それを表現できるプラットフォームを高校の友人の力を借りて制作しました!是非、「味わい深さ」を見つけて味わう感性を研ぎ澄ませて、生きてみてほしいです。そして見つけては激写し、バンバン投稿してほしいです!

↓こちらから!↓

さて、本題はここからです。

このプロジェクトに対して、こんな意見を持たれる方がいるかと思います。

「え?写真なんて、InstagramとかSNSにあげればいいじゃん。」

さあ、僕がなぜわざわざ、写真を載せるプラットフォームを作ったかを説明します。

まずは、SNSについてちゃんと考えてみましょう!

SNSをある意味諦める

SNSの発生

SNSは、もともとは「2チャン」とか「ミクシー」「ニコ生」のようなものから始まりました。匿名で社会的弱者が居場所を作る場所、というのが元来のSNSだったわけです。

それでは、最近のSNSを考えるために、今ではとても多くの人が使用している、「Twitter」「Instagram」「Facebook」の各々の特色を見てみます。

Twitterを考える

まず、「Twitter」は、140字以内で、様々なことを投稿する、拡散型SNSです。言語以外にも、動画や写真も投稿することが可能です。

では、使用する人の深層心理を見てみましょう。

基本的に、「Twitter」の一番の特徴は「ボタン一つで拡散ができる」ということです(リツイート)。

基本SNSでは、自分のアカウントを自分が許可した人以外には見られないようにすることができます(鍵アカウント)。鍵アカウントでTwitterを利用してる場合は、ただ知り合いを笑わせたい感じで、クラスや友人グループの中で何かを発言しているようなものです。そんな感じの意識でTwitterを使っているのではないでしょうか。

一方、アカウントを誰でも見れるようにすれば、全く趣旨が異なってきます。まず、アカウントの名前を「匿名」にしている場合、大半が、自分の「世界に素手で触れる感覚の不足」を満たすために、誰かのしょうもない投稿に「いいね」したり、目立ちすぎてしまった人を非難してみたり、、、そんな「卑怯なやり方」で、自分の欲求を満たそうとしています。こういう人を生むのがこの悲しい社会であることは覚えておくべきです。

(昔も「承認欲求」に飢えてる人が世界にはいました。暴走族とか不良とか、非行に走る人は、基本この類でした。でも彼らは大体自分の名前をしっかり背負って、「ケジメ」を大切にしている場合がほとんどでした。)

一方、しっかり自分の本名でTwitterをして、誰かに意見を言おうとする人は、道徳的には反していませんが、それによって「世界に素手で触れる感覚の不足」を満たそうとしています。本名を名乗ろうが名乗らまいが、「バズりそうな」投稿を一生懸命投稿する人は、「承認欲求」を満たすために、SNSを使っています。投稿するときにはそんなこと考えていない人も、例えば自分の投稿に「いいね」がつけば、その分「嬉しい」という「承認欲求」が満たされる気持ちになるでしょう。これは人間の本性でしょうから批判することでも何でもありません。いいことをしてみんなから褒められたら嬉しいでしょう?

まず、これが「Twitter」の現実です。

Instagramを考える

最近では上の世代も利用率が伸び始めている「Instagram」は、自分の日常を日記のように画像や動画を用いて表現する、視覚型のSNSです。

もともと、「何かを表現する喜び」にフォーカスしていたSNSです。しかし、いつからか「インスタ映え」という言葉が広がるようになりました。

例えば、「すごい」とか「きれい」と思う写真を見たら、「いいね」と思いますよね。すると、人は「いいね」と思ってもらうために、写真を投稿するようになります。すると人々は、わざわざ「インスタ映え」を目的にして行動するようになります。美味しいご飯を食べても、写真を撮って投稿し、「美味しい!」という満足感を、「いいねされた」という満足感が上回るようになります。自然の流れですね。インスタは日常を発信するSNSでしたから、日常のほとんどが「承認欲求」に支配されるようになってしまったのです。

しかし、時代はどんどん進みます。だんだんと、「承認欲求」に縛られて生きていることに気付き、疲れてしまう人が増えてきます。すると、まず自分の「承認欲求」がイヤになってきます。そして他人の「承認欲求」も、なんだか「気持ち悪い」と感じるようになってきます。

ここまでいくと、SNSに限界を感じるようになります。そして距離を置くようになるか、使い方を変えることになるのです。

Facebookを考える

Facebookは、海外で友達を作りたいなら、使っとけばいいと思いますが、若者はあまり使っていない、おっさんアプリです。たしか大学での生徒管理のものを作るとして開発されたのが始まりだったように思います。だからFacebookは本名で使うSNSであり、ほとんど名刺代わりとして使用されているのです。

ですのでFacebookには「承認欲求」がそこまで蔓延っていません。蔓延ってるのは「おっさんの自慢」くらい。

まずは、これらのSNSの深層心理をしっかりと分析し、理解しましょう。

「承認欲求」の正体

社会で人と人の本質的な繋がりが希薄になった今、「承認欲求」を何かしらで満たさなきゃいけないのは明白です。人間が人と人の繋がりで幸福感を覚えるのは科学的にも証明されています。だから、「承認欲求」はいたって「自然」なのです。でも「承認欲求」も行き過ぎれば、純粋な美しさを、純粋に感じたり、純粋に表現することができなくなってしまいます。ここに人は違和感を覚えるのです。

他人が良いと思うものを考えて自分の欲望を満たそうとするのと、他人のために何かをするのは、同じように見えて本質的に違います。前者でいれば、社会の大多数の(全体主義的な)統一された美意識に洗脳されます。これではその人が持っていたその人独自の感性を痛めつけるて忘れることになるのです。

ここまで考えた上で、僕のSNSの使い方を紹介します。

まず、Twitterは、本名で鍵をかけずに使っています。投稿内容は、おそらく説明したら多くの人が理解してくれるようなことと、宣伝だけです。承認欲求とかを一切気にしない人しかフォローせずに、「学び(情報キャッチ)」の場として俯瞰しています。

次にInstagramは、宣伝(ブランディング)としてしか使用していません。見れば見るほど「なんとなく生きる現実」に引き戻してきそうな人は全てフォローを外しました。

Facebookはオンラインサロンのプラットフォームとしてと、海外の友人と繋がる手段として、利用しています。

僕はSNSをほぼ、「宣伝」と「学び(情報キャッチ)」にしか利用していないのです。このやり方を始めてから、SNSがかなり快適で有意義なものになりました。

僕が友人のフォローを片っ端から外すことについてこんなことを言う人がいます。「SNSは誰かと繋がっておける(連絡手段を持っておける)手段だよね、それが無くなってもいいの?」と。こう答えます。「いや、繋がりたい(連絡したい)と思ったら、知り合いを辿って行けば絶対繋がれるよね。それに、フォロー外したくらいで繋がりが一生無くなるくらいの人ならそれまでの関係だっただけだと思うよ。」と。そしたらこう言われます。「でもみんなの日常とか見るの普通に楽しいじゃん。みんなが何してるのかも知っておきたいじゃん。」と。こう答えます。「“楽しい”は生活の中に他にいっぱいある。違和感付きの“楽しい”は、イマイチな“楽しい”。それに僕は“なんとなく生きてる日常”を覗いてるとなんか疲れる。本気で何かしてる人の活動は、自然と耳に入ってくるはずだ。それほどの活動をしてないなら、久しぶりに会ったときに、なにしてたか聞いた方が新鮮で面白い。」と。僕はフォローしてない友人が嫌いなわけでもないし、ダメだと思ってるわけでもない。むしろみんな好き。ただそれは関係ない。

ここまでいけば、SNSで何かを投稿しても、「承認欲求」は完全に無であり、「いいね」の数は広告効果の把握にしか感じなくなります。しかし、ここまで俯瞰してSNSを使える人は、ほとんどいないでしょう。

SNSで何かを投稿すると、どうしても、「承認欲求」が発生します。そして、もし僕のように「承認欲求」が完全に無になったとしても、僕の投稿を見ている人は「承認欲求」をもとにしてSNSを利用している人がほとんどです。だから、SNSに投稿すると、内容の「価値が落ちる」という現象が発生します。

さらにSNSをダラダラと見てるとき、多くの人は深層心理で、「私はこんなことをしていていいんだろうか…」というのを持っています。

これに薄々気づいている人が、実はたくさんいます。

今や、多くの人にとって、SNSはモヤモヤを生み出すだけのものになっているのです。これが現実です。反論があるならしてみーや。(調子に乗るな、なんくん!)

そういう人にアドバイスです。

SNSをそういうものだとちゃんと認識して、純粋な「表現」としての価値は諦めよう。そして自分なりの向き合い方を決めてみよう。

「総アーティスト化Project」の本質

さて、長くなりましたが、僕が写真を投稿するプラットフォーム(「見えなかった日常」というサイト)を作ったワケを説明します。

それは、「承認欲求」を完全に排除して、純粋な「表現(アート)」としての価値を最大化することです。

他人が美しいと思うものを探すのではなく、自分が純粋に美しいと思うものを、自分の心で純粋に、味わうのです。そして、それを「表現(アート)」するのです。それを他人がいいと思おうが思わまいが、気にしなくていいのです。

そのために大事にしたポイントは二つ!

・「いいね」を作らない

・「匿名」にする

これによって、SNSに対してどうしても逃れられない「承認欲求」という違和感を持ってる人たちが、純粋に「表現(アート)」できる場を作ったのです。

その「表現(アート)」には、純粋な、本質的な「価値」があります。

というわけで、人の心に純粋な輝きを取り戻す場として、このプラットフォームが活躍することを、願っています。

長いのに読んでくれた人、本当にありがとう!

是非、サイトをどんどん利用してね!

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