高野連のボーンヘッド

高野連のボーンヘッド

先日新型コロナの影響で、センバツ甲子園が史上初の中止になることが発表されました。この判断について、僕の個人的な意見を書きたいと思います。

コロナを一刻も早く抑えたい

まず、皆さんもご存じなように、コロナは健康な若者にとってはほとんど跳ね返せる病気です。ですが、免疫が弱っている方や、持病を持っている方、体を壊されている方や、そもそも体が衰えているお年寄りにとっては、かなりリスクのある、油断するべきでない危険な感染症です。この危険な感染症をみんなで歯を食いしばって協力して、少しでも早く止めなくてはいけません。最近では、新型インフルの時のように「終息」はできず、普通に残り続けるのではないかというふうにも言われ始めています。それでも、この感染力の非常に高いコロナを少しでも早く抑えていかなければ、日本も世界もかなりの打撃を受けることになってしまいます。だから、イベントを中止したり、学校を休校にしたりする措置は状況を見ながらやっていくべきと考えています。

まあ、コロナの対応については賛否両論、様々な意見と、様々な苦労があると思いますが、ここはなんとかみんなで手を取り合って(物質的に手を取り合ってはいけないですが)、食い止めるために、助け合って乗り越えていかなければいけません。

センバツは、やるべきだったのか?

さて、ここからが本題です。

「センバツは、やるべきだったのか?」についてです。

僕の意見は、

「無観客で、開催すべきだった」

です。

その理由

僕が、今わざわざセンバツをやるべきだと思った理由は二つです。

一つは、「高校野球にはとんでもない力(人に感動や勇気や元気を与える力)がある」ということ。

もう一つは、「高野連が“頭の固い古いしがらみだらけの時代遅れな組織”ではなく、“本質を忘れず大切にできる組織”だと示し、イメージアップできるチャンスだった」ということ。

今、コロナの影響で、暗いニュースばかりで、外出もできず、なんだか不安が多い日々ですが、そこに高校野球の力は間違いなく有効です。

そして、高野連は今、たくさんの元高校球児やその他大勢の人から、“頭の固い古いしがらみだらけの組織”のようなイメージを持たれているように感じます。それを打破しないと今後も高校スポーツ界で高校野球界だけ孤立していくことになります。今がチャンスなのです。高野連は、おじいちゃん達を家に帰して、若いものが陣頭指揮を執って、オンラインをフル活用し、死に物狂いで万全の準備をし、死に物狂いで「日本中に元気を」と動けば、きっと開催も可能でしたし、組織も変わり、世間からの見方も180度良くなり、良いことだらけだったはずです。勿論かなりのリスクを伴いますから、徹底的にリスクを洗い出し、死に物狂いでの努力をしなければいけません。

“本質”というのは、「なぜ今甲子園をやるのか」ということです。これを忘れないことです。これを大事にできるならば、今回やらなければいけないことは二つだけです。「テレビなどで高校球児が必死に頑張っている姿を全国に流すこと」と「選手が安全に野球をできること」です。これさえ、この二つさえできればいいのです。

センバツには全32校が出場する予定でした。32校が選手18人ずつ、コーチと控えとマネージャーと事務関係者含め、一校につき30名以内で抑えることは可能です。30名でバスで移動します。30人×32校で960人ですが、開会式はないので全員で集まることはありません。通常であれば、球場職員と高野連の人間が選手の何倍かの人数動くことになりますが、これはいかようにでも減らすことは出来ます。審判10名、球場職員50名、テレビ・ラジオ関係者60名として、カメラマンや医療関係者やその他で40名、一日にこのくらいまで働く人を必ず抑えられます。今回必要なのは「テレビなどで高校球児が必死に頑張っている姿を全国に流すこと」と、「選手が安全に野球をできること」この二つだけですから。つまりそれ以外は全て削っていいのです。結果、一日に必要なのは30人×6校+10名+50名+60名+40名で、合計340人です。この中でもかなりの除染と消毒を行い、選手たちはチーム内以外での人間との接触は極力避け、高野連の打ち合わせは全てテレビ電話でやり、職員も球場内でも極力話さずに無線やオンラインで会話をします。

開催までにも、通常であれば大会をより盛り上げるために、より付加価値をつけるために、かなりの準備がされることと思います。しかし、今回は先ほども言ったように、「テレビなどで高校球児が必死に頑張っている姿を全国に流す」というのと、「選手が安全に野球をできること」この二つだけを達成すればいいのです。つまりここに関係ないものと、なくても大丈夫なものは全て、一切やりません。そして、準備については会議は基本オンラインで行い、集まって話すのはとりあえず若い健康な職員だけにします。そして、若い健康な職員が中心となって準備していきます。若い健康な職員たちはどこかに固まって泊まって、なるべく外出を控えたり、他との直接的な接触をしないようにしたり工夫はたくさんできます。

各高校については、練習等は極力甲子園以外ではしないようにして、甲子園前の練習試合なども極力しないようにします。移動のバスの運転手の管理からなにまで徹底的に高野連は行います。

一つネックになるのが、「無観客による感動の価値の低下」です。ここはどうやって対応するか、高野連の若手は懸命に考える必要があります。また、世間に問う、という道もあります。必ず良いアイデアは生まれます。もしも全くアイデアが出てこなければ、もともと野球はラジオで聞くだけでも楽しいので、もはやラジオだけにするというのも価値の最大化としてはありです。

また、高野連は、昔々の始まったころの甲子園を思いださなければいけません。「本質を伝えるために不要なもの」が、どんどんどんどん見えてくるはずですから。

さあ、どうでしょうか。僕が、「無観客で、開催すべきだった」という理由はこんな感じです。

高野連の結論

しかし、こういった思い切った「変化」(時代の流れに合った普通の行動)を起こせないのが、高野連でした。おじいちゃんたち(過去の功労者)の権力はあまりにも強く、おじいちゃんたち(過去の功労者)を振りほどいて前に進むだけのシステムは今の高野連にはなかったのです。結局、甲子園は中止になりました。勿論、甲子園という夢を少年の頃から追い続け、本当に血と汗と涙を流して必死で頑張ってきた高校生たちの努力も、この絶好の機会に(もしかしたら通常時の何倍も輝くかもしれないのに)、生かせませんでした。

もしも、リスクの徹底的な洗い出しと対策をしていれば、高野連の若手がとんでもない努力をして、例えグダグダに終わったとしても、とてつもなく価値のあるもの(未来に繋がる共同資産)にはなったと思います。その努力と決断すらやり切らず、「大きな変化」と「世間の批判」と「防ぎきれないリスク」を恐れて中止を決断したのは、今の高野連の実態を色濃く表していると思います。

僕は、高野連は「チャンス」を自らの手で潰してしまったように感じます。

今回参加する予定だった高校球児たちが、夏に、また輝いてくれることを楽しみに待つばかりです。

他人事か?

この状況は他人事でしょうか。

努力と決断すらやり切らず、「大きな変化」と「周りの批判」と「防ぎきれないリスク」を恐れて、自らの手で、大きすぎるチャンスを潰す。

この状況は他人事でしょうか。

これは、もしかしたら我々にとてつもなく大切な教訓を教えてくれているようにも感じます。あなたは思い当たらないでしょうか?

ここから見えてくる大切なこと、それは、

今、目の前にある難題を、「チャンスと決めつけること」そして、「大きな変化」と「周りの批判」と「防ぎきれないリスク」を恐れず、「決断」して、死に物狂いで「努力」すること。

もう一度言います。

今、あなたの目の前にある難題を、「チャンスと決めつけること」そして、「大きな変化」と「周りの批判」と「防ぎきれないリスク」を恐れず、「決断」して、死に物狂いで「努力」すること。

これをできたら絶対に、その先に、これまでとは全く違う景色が見えるようになります。

その景色を見に行く方が、ワクワクしませんか?

『南大樹のLIFE日誌』カテゴリの最新記事