ネット・ゲーム依存症対策条例の是非とその先

ネット・ゲーム依存症対策条例の是非とその先

ネット・ゲーム依存症対策条例の是非

香川県が先日、日本で初めて、ゲームやスマホの利用制限に関する条例案を出し、物議をかもしました。

その条例案には、ゲームとスマートフォンの利用時間制限が盛り込まれています。具体的には、コンピュータゲームに対して「18歳未満の使用時間の上限は平日は1日60分、休日は90分」「スマートフォン等の使用時間帯は中学生以下は午後9時まで、高校生は午後10時まで」としています。ただし、努力義務のみなので、罰則規定などはありません。

皆さんは、この条例案をどう思いますか?

この条例案への意見は様々です。

反対意見

「ゲームを禁止する意味が分からん。」

「スマホとかゲームは今の時代、これからの時代必要だし、時代錯誤だ。」

「e-sportsの分野は今後大きな市場になるし、ゲームもただの道楽ではなくなった。それなのになんだその条例は。いらないだろ。」

「コミュニケーションツールとして今やスマートフォンは必要不可欠となっている。制限なんてするべきじゃない。」

「スマートフォンで勉強したりもできる時代なんだから、制限するのは意味ない。」

「努力義務だけじゃ効果なんてないだろうし、意味ないだろ。」

「そんなん家族で決めるレベルのことだから条例で決めなくていい。」

「ゲームが勉強不足や引きこもり等の根本的な理由ではないと思うから。」

「個人の自己決定権を侵害する。奨励していくならまだしも、条例で規制はやりすぎ。」

賛成意見

「スマホもゲームも、中学生までなら別になくてもいい。」

「意識改革としてはとてもいい条例だ。」

「賛成だけど、果たして効果があるのか、と思ってしまいます。」

「ゲームなんてやっても意味ないから。」

「実際、スマホやゲームのせいで子供の運動能力は落ちてるんだから、制限する意識を社会に作るのは必要だ。」

「一般の人に取り入れるのは賛成。ただeスポーツとかがある現代的には時代に反している気もする。」

「やってみてから考えよう。」

「楽しさはもちろんあるがやりすぎは時間の無駄。オフラインでの人との時間や本や勉強に時間を使った方が自分の未来に活きる。」

などなど、他にも様々な意見があるかと思います。

ゲーム等に対する持論

今、世界には多種多様なゲームがあり、人と協力して何かをするゲームもあれば、個人のみでプレーするゲームもあれば、はたまた人と人の“出会い”や“協力”や“協調性”や“コミュニケーション”、“学習”なんかを生み出すゲームもあります。はっきり言って、それらを全て「ゲーム」と一括りにして、考えようとするのはもったいないし説得力に欠けるものです。つまり、「ゲーム」と言ったって一概には言えない、ということを前提にして、僕の持論を述べます。

僕はこの条例を聞いたとき、「面白い」と思いました。

この条例文をしっかり読むと、「ゲーム」の生産性の低さと、人間の精神に与える影響をしっかり分析したうえで、作成されたもののように感じるので、かなり意味のあるモノだと僕は感じます。さらに言えば、「ゲーム」についての議論を生んだというだけで、大きな意味があったと思います。

色んな人の意見が紹介されていて、それを聞いて感じるのは、「しょうもな」ということです。はっきり言って、「ゲーム」なんて世の多くの人に、世界の多くの人に関心を寄せる苦労を避け、目の前にある、勝ちや負けやスコアで一喜一憂し、満たされるためのツールです。(ゲームにも種類があるから一概には言えないというのは前述したように承知済み)

今後e-sportsがどれだけ発展したとしても、ゲームをしてるときは基本的には画面に目を向けます。人の目を見たり、人の顔を見たり、人の手に触れたり、人を想ったり、人に想われたり、そんな要素は含まれていない場合が多い。(例外もたくさんある)

小さい子供に、「ゲーム」を与える親は、何を教えたいのでしょうか。何を感じてほしいのでしょうか。そこにどんな願いや想いがこもっているのでしょうか?

教えてください。

これは、「どんな社会で生きたいか」という話から考えなければいけません。

子供たちが、より多くの時間を「ゲーム」に費やし、ネット閲覧に費やし、育っていく社会。子供たちが、学校から帰って、ランドセルを投げ捨てて、ゲームを始めたり、スマホを見始める、そんな社会。道を歩いていて、子供の遊ぶ声を聞けることが、珍しくなっていく社会。公園では、子供たちが走り回るのではなく、集まってゲームをしている社会。ネット上で、同じ考え方や、同じ趣味嗜好の人とばかり付き合える社会。匿名という名のもとに、ネット上ではどんなことでも言えてしまう社会。子供が怪我をしなくなる社会。

こういう社会で育った子供が、大人になります。青空の下で走り回っていた子供が大人になってきたこれまでと、どんな変化が生まれるでしょうか。比べてみてください。プラス面を教えてください。「専門性が磨かれる」とか、「科学技術に強くなる」とか、それ以外にです。「今」ではなく、「未来」です。どう頑張っても、マイナス面の方が、多く思いつきませんでしょうか。マイナス面としてよく言われるのは、「身体能力が低下する」とか、「健康的でなくなる」とか。ですが、もっと心理面にも影響があるのではないでしょうか。「自然の大切さを知らない」とか、「痛みに弱くなる」とか、「人の痛みを想像できなくなる」とか、「考えが合わない人に自分の気持ちを伝えられなくなる」、「考えの合わない人を理解して共存する力が無くなる」とかとか。他にも数えきれないほどのデメリットが思いつきます。

よく言われるのは「みんながみんなそうじゃない」とか、「ゲームとは関係ないだろ」とかとか。はい、そんなのあたりまえでしょう。僕はそんなことが言いたいんじゃない。大局的に見て、どうかってことなんです。人間に必要なのが何なのかってことです。みんなが同じなわけないでしょうが。

分かりやすく言えば、環境問題と同じですよ。自動車を発明した人に、「それを世界中の人が使うようになったら、温室効果ガスが大量に発生して地球温暖化進みますよ!」って言って、「いや、実際寒くなってる地域も、変わってない地域もあるじゃん。」ってあなた言ってるようなもんですよ。大局的に見て、地球は絶対温暖化しているんです。地域によって差があるのはあたりまえでしょうが。そして、地球環境をここまで追い込んだのは、「みんながみんなそうじゃない」と言い続けた人たちです。今ならトランプみたいな。あなたが言っているのは、それです。勿論、中にはいろんな生物が絶命しても、それでももっと地球が温かくなればいい、と望んでいた人がいたかもしれませんがね。まあ、いないでしょうが。

これからスマホ・ネット・ゲームの低年齢化がもっと進めば、確実にこういう社会へと向かっていきます。それが良いか悪いか、それを望むか望まないか、私たちは、ちゃんと考えなければいけないのです。上で述べたような社会を、あるいはそういう社会で育った人たちが大人になった社会を、心から望むのならば、胸を張ってこの条例に「反対!」と言ってください。

もっと、世界を大局的に、隅々まで見ることが必要です。そういう意味で、香川県が、取り掛かった、この取り組みは、革新的で、本質的で、批判を浴びることを承知で、それでも、未来を、私たちが生きたい未来を、作るんだ、という強い想いが感じられるのです。

僕は、そういう社会がイヤです。そういう世界で生きたいと思いません。子供には外で、青空の下で遊びまわっていてほしい。子供の笑い声や泣き声が町中に溢れる世界がいい。子供はいっぱい怪我をして、怪我をさせてしまって、強くなると、成長すると思っている。

それならば、ほんの少しでも、対策を打つ必要があります。今回の条例は、努力義務しかないので、「反対」の人は別に気にせずやればいいという配慮が裏にあるので、うまくやったなあと思います。

ですので、僕は大きく「賛成」です。

まあ、僕は日本とこの世に諦めているので、どっちでもいいんですがね。

ここまでが僕の意見でした。

なんだか悲しいな

あなたは、どんな世界で生きたい。どんな社会で生きたい。

そこまで考えていますか?

その後どんな社会になっていくのか、どんないい影響があって、どんな悪い影響があるのか、考えていますか?

一概には言えないことばっかりだけど、それでも、少しづつ社会は変わっていくんだ。その要因となるものが、あるんだ。

5Gも6Gも、なんでもそうだけどさ。

環境問題ならそれは、自動車だった、プラスチックだった、コンクリートとかとかだった、、、

「自動車が悪い!」なんて一概には言えない。自動車にも種類がある。温室効果ガスをほとんど出さないものもあれば、いっぱい出すものもある。でも、全体としてみたら、必ずそれは、世界を変える、いち要因になった。勿論自動車なんて、メリットだらけだった。ほとんどの人が、便利になるから、と言って、たいして何も考えず、車を使い生活を豊かにしてきた。でも、そののち、大きすぎるツケが人間に返ってきた。

人間は、過去から学習し、未来へ活かす能力を持っているんです。また、何も未来を考えず、その時の楽しみやストレス解消を大事にしていくんでしょうか。

そこまで考えているのか?

反対!という人は、そんな未来まで、考えているのか?

それとも、「諦め」ているのか?

それとも、本当にそんな世界を望むのか?

最後に、ドイツの小話と南米の小話を、紹介します。

「魔法」と「代償」

ドイツの昔話。「魔法使いの弟子」。

魔法使いの弟子になったフンボルト君は、先生の留守中に、覚えたての魔法を使って、ほうきに水くみをさせようとします。ほうきにしっかり魔法がかかって、ほうきは水を汲んできてくれました。ここでフンボルト君は、あることに気が付きます。「魔法の解き方をまだ習っていない」ということです。ほうきは、水を汲み続け、そしてしまいには、家は洪水になってしまいました。

科学技術とは「魔法」です。その「魔法」を操るのは、ほかでもない、僕たち人間自身です。しかし僕たちのほとんどは、その「魔法」を習いたての「魔法使いの弟子」。「魔法」をかけることは出来ても、それをどうやって止めるかを知っているものはほとんどいないのです。

ネット依存症なんて、「魔法」に人間が操られている、いい例ですね。

「ゲーム」「ネット」「スマホ」という「魔法」の先に、どんな未来が待っているのか、考えておくことが、大事ではないですか。

クリキンディの精神

南米アンデス地方の小話。

森が燃えていました

森の生き物たちは われ先にと逃げていきました

でもクリキンディという名のハチドリだけは

いったりきたり

くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは

火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て

「そんなことをしていったい何になるんだ」

といって笑います

クリキンディはこう答えました

「私は、私にできることをしているだけ」

環境破壊、水不足、地球温暖化、戦争、飢餓、貧困、原発の危険…。僕たちの生きている世界は深刻な問題でいっぱいです。「スマホ」「ゲーム」「ネット」とかいう「科学技術」たちが、100年後くらいに、上の問題に加えて、さらに、「人間破壊」という新しい問題を生み出す可能性も0じゃないでしょうね。しかし僕には、それらの重大な問題にも増して大きな問題があると思います。それは、「これらの問題に対して、自分にできることなんか何もない」と僕たちが諦めを感じていることです。もしも僕たちのうちに広がりつつあるこの無力感を吹き払うことができたなら、つまり、「いや、自分にもできることがあるんだ」と思えたなら、その瞬間、僕たちの問題の半分くらいはもうすでに解決しているのではないでしょうか。

僕たち人間は、すべての生き物の中で最大の力を持つようになりました。残念ながら、その力はしばしば人間同士を傷つけあったり、自然環境を壊したりすることに使われてきました。でも幸いなことに、人間は、問題を問題として自覚することができます。そしてその気になれば、問題を解決する方法をあみだし、計画を立て、それを行動にうつすこともできます。みんなで力を合わせて水のしずくをたくさん集めて、燃えている森の火を消すだけの能力を持っているのです。

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