「脱主観」と共にある未来を

「脱主観」と共にある未来を

Series「損得を超えた誠実を求めて」

 シリーズを通して、「近代の延長」を生きる我々が先の時代に進むために、認識しておいた方がいいことを書いていきたいと思っています。全体を見た話をする相手が増えてほしいなあと思い、書くことにしました。こういった話は前提として、前を向いて語れる人が増えてきたらいいなあと思ったりしています。

 第五回は、『脱主観と共にある未来を』です。これまでの四回で「脱近代」について考えてきました。今回の「脱主観」は、「脱近代」の手がかりになるとともに、その先にあるものの土台にもなり得るようなとても重要な要素ではないかと考えています。是非イメージを膨らませながら読んでもらいたいと思います。

 「良い」とか「悪い」とか、「〇」とか「×」で、物事を語ることを辞めようという話をこれからしていきます。くれぐれもその前提を忘れずに、自分の中の勝手な思い込みで何かを「否定」したり「肯定」したりしないように気をつけて読んでもらいたいと思います。

第五話

『脱主観と共にある未来を』

「脱近代」から見えてきたこと

 これまでの連載を通して、「脱近代」のための道筋を書いてきました。その過程で、「物事をどの視点から見るのか」ということ自体が非常に重要であることが、だんだんと分かってきました。

 第四回の「近代を超克せずしてどこへゆく」では、「良い」「悪い」は視点次第で全ての事象に存在するし、たいしてそこに我々の存在そのものを支え得るほどの意味や力はないのだということを述べました。

 しかし、善悪二元論や宗教や何かのイデオロギーのような分かりやすい「意味」たちは、私たちを支えてくれる大切な要素であることも事実です。私たちは常日頃から無意識のうちに何かの「意味」を「信じる」ことで精神状態の安定を図っています。「脱近代」の過程では、これまで信じてきた「意味」を自ら喪失させることが重要です。

 ということは、その過程を乗り越えなければいけないのです。それでやっとこさ新しい時代を思索していく準備が整うのです。ですが、乗り越えるためにはとてつもない「苦しみ」が伴うと考えられます。

 第一回の『近代を引きずる現代を見つめる』でも書いたように、教員をはじめとした多くの人が「自分の人生を否定したくない」ので、「言い訳の達人」と化しています。そういった人たちが最も、乗り越えるのが困難な状況にいます。また、40代以上の人々も、方向転換が効かなくなっている人が多いのが事実でしょう。

 そこで、大切になるなぁと考えているのが「脱主観」なのです。

 私が標榜する「脱主観」には、二つの目指すべき方向(意味合い)があります。一つは「”客観”の外界への適用」で、もう一つは、「”主観”や”客観”以外の何かへの意識」です。二つについて詳しく考えていこうと思います。

視野の拡大では表せないこと

 半年前くらいに、高橋祥子さんの『生物科学的思考』という本を少々拝読しました。そこに、「空間的視野」と「時間的視野」を広く持ちながら意思決定をすることの大切さが綴られていました。「空間的視野」と「時間的視野」の意識は非常に重要であり、それは「スケール観を動かしながら物事を比べる」ということでもあります。「近代」が我々から奪ったものの一つが、まさにこの感覚です。

 第三回の『日本古来の自然観の再発見』の最後の方でも少しだけ述べましたが、「近代教育」では生徒にいくつものタスクを与え、一つ一つの繋がりを思考する場を設けず、個別の事象ごとに合否を判定します。すると、人間は目の前のタスクをこなすことに力を注ぐようになり、それぞれの事象を比べる力を無くしていきます。第三回でも述べたように、「個別の事象を違う事象と結びつける能力」や「個別の事象から全体(普遍性や本質性)に視野を広げる能力」を無くしてしまうのに加えて、「スケール観を動かしながら物事を比べる能力」も知らぬ間に無くしてしまうのです。「脱近代」へ進むためにも、「スケール観を動かしながら物事を比べる」ことは、間違いなく大切であると言えるでしょう。

 さて、『生物科学的思考』の該当文章付近で添付されていたイメージ図がこちらです。

 この図は前述したように、「脱近代」のためにとても大切ですが、それ以上のことを表せる図ではないと感じます。というのは、この図では「自己(主体)」から物事を見る構図になっているのです。

 「脱近代」を前提として、その先へ進んでいくためには、この図をさらに拡張していく、あるいは抜け出していく必要があると思っています。そこで「脱主観」が大切になっていくという見方ができるわけです。

外界を客観的に見るということ

「主観」という概念も近代の黎明期に打ち立てられた概念の一つです。カントなどの哲学者たちは、「主体」として生きる「個人」の中心にある「自我」を「主観」という言葉で表しました。

 「主観」は、「主」から「観る」と書きます。自分の「心」や「脳」といった「目」から物事を見ることを「主観的に物事を捉える」と言ったりもします。

 一方で、対義語として用いられる「客観」は、「客」から「観る」と書きます。自分以外の「どこか」から物事を見ることを「客観的に物事を捉える」と言います。

 この二つの違いを考えてみます。

 「主観」で物事を捉えると、自分の中にあるその他のものにも大きく影響を与えやすいです。例えば「感情」を強く刺激したりします。或いは、もはや「感情」と表裏一体のようなところもあるので、「主観的に物事を捉える」を、「感情的に物事を捉える」と言う人さえいます。一方、「客観」で物事を捉えると、ある程度冷静に、物事を捉えて比べることができます。視る始点が「自分(主体)」から離れているので、何があってもある種の「どうでもいい」という気持ちでいることができます。

 「客観的に物事を捉える」と聞くと、最初にどんなことをイメージするでしょうか。おそらく多くの人が、「今こんなことをしている自分を客観的に見ると、なんだか気持ち悪い」といったような文脈を頭に浮かべるのではないでしょうか。ここから見えてくるのは、ほとんどの人は「客観視できるのは自分のことだけ」ということです。

 これまで、フッと「目」を自分の外に移動させて見てきたものは、自分以外に何かあるでしょうか。これが「脱主体」の一つの大切なところです。

 私たちの多くは、他人の目を気にするがあまり、自分自身を客観視する能力を成長させ続けてきました。(多くの人が今の自分は気持ち悪くないだろうか、周りから見るとどう見えるだろうか、と考え続けて生きてきたということ。)しかし、自分以外の物事を客観的に見るということについては、とても無関心なのです。 そういった人の多くは、「近代」の影響もあって、何があっても「自己(主体)」を保守せねばならぬという潜在意識が強く、「自己の喪失」をとても恐れています。「自己(主体)」が失われるということは、「死ぬ」と同義だと感じている人がたくさんいます。その原因は、一言でいえば「近代」ですが、もう少し具体的に言うと「損得」がここでも大きく関わってきます。

 「損得」の広がりによって、「”いる”だけでよい場所」がこの社会からどんどん失われていきました。「存在」そのものを受け入れてくれて愛してくれる場所は、人間にとっての「居場所」であると考えることができます。

 ちょっと歴史を辿ってみると、日本では人それぞれに「役割」があるという考え方が古来から存在していました。「結」の文化から始まり、災害の多い自然環境の中で暮らしてきた日本人は、「ある一つの指標」で秀でた人を社会全体で祭り上げることは、生存戦略的に向かなかったのです。それぞれの「役割」をしっかりコミュニティ全体で認め合って、役割を単一化させないことが、集団の生存戦略として有効に働いたのです。

 しかし、近代化以降、「資本主義」が社会を支配するようになり、「一つのイデオロギー」を社会全体で信奉するようになっていきました。すると、そのイデオロギーに役立たない人は、社会で認められないことになります。(例えば、学校で全員に同じテストをやらせて点を付けて人を評価する仕組みがそう。)「役に立たない」人間や、「人に迷惑ばかりかける」人間は、「死んだほうがいい」と思うようになってしまうのです。

 このように、「”いる”だけで良い」とされることが無くなった社会では、周りの人々が自分の存在自体を愛し続けて、認め続けてくれるという保証がないので、自分で自分を守る必要性がでてきます。「自己」を失えば、もう本当に「自分自身」が消えてしまうという感覚になってしまうのです。

 しかし、本来はそんなはずはないのです。客観的に物事を見たとしても、自分と言う存在は、この世界にちゃんと存在していて、ちゃんと生きているのです。「生きる」ということを大切にしていれば、どれほど客観的に物事を見たとしても、生きている自分は、ちゃんとそこにいるのです。そして、それこそが大切なのです。

「主観」「客観」以外の思索

 もう一つの「脱主観」は、「主観」でも「客観」でもない感覚を追い求めることにあります。「主観」と「客観」は、そもそも近代で生まれてきた概念です。ということは、それ以前の人はどういう感覚で物事を見ていたのでしょうか。それを知る人はもう誰もいないし、そもそも表す「概念(言葉)」が無かったので、分かりません。しかし、それを考えてみることは重要です。そして、それを考えつつ、自分の中で新しい「脱主観的感覚」の存在を模索し始めることが大切です。

 これはとても難しく、生きている間に何か掴めるかは微妙なところでしょう。しかし、ここで重要なのは、「主観」でも「客観」でもない何かを探している、またはそれに基づいて物事を捉えて生きているという「感覚」や「意識」そのものです。ぼんやりしたイメージで構わないけれど、しっかしと胸の中で温もりを持ってイメージすることが大切だと、私は思っています。この探求はめちゃくちゃ難しいことだと思うので、未知への憧憬の素養が無ければ厳しいのかもしれません。

丈夫で包容力を持つ未来を

 さて、今回は「脱主観」について考えてきました。あまりにも「主観」から抜け出せない人が多すぎて、怖くて冷たくて汚い空虚さがこの社会にはすごく漂っているように感じます。もしも今、「脱主観」について深く思慮しなければ、どんな社会活動をしたとて、どんな啓蒙活動をしたとて、どんなアート活動をしたとて、数十年後にはある意味での限界が来るでしょうし、あらゆる空虚な問題を生み出すでしょう。

 何度も言いますが、「脱主観」は「”主観”を捨てなさい」という話ではありません。自分の感性に従って自然に物事を捉えることはあくまで素敵ですし、そこに前述した「スケール観を動かしながら視る」という視野の拡大などが加われば、あらゆる問題が解決されていくでしょうし、新たなイノベーションも生んでいくでしょう。

 しかし、どんなに視野が広くても「主観」にとどまっていては、結局自分(や周りの人)の利害や「損得」でしか、物事を捉えることも、受け入れることもできないのです。そこから生まれてきたものは、結局それまでのものでしかないのです。

 しかしながら、それに「脱主観」を加え、二つの方向性で思索を始めて世界を捉え始めることができれば、空虚さの穴埋めに繋がるのではないかと私は考えています。「脱主観」の意識が腹落ちすれば、「自分の人生を否定する」のを怖がることもなくなりますし、それはつまり「本当に大事なもの」の存在を追求できるようになるということでもあります。そしてさらに、「脱主観」の意識(またはその先にある何か)が、今後の新しい自然観や哲学の土台になれば、かつてないほど丈夫で包容力のある時代の到来を予期させてくれる気がするのです。

 さあ、この連載もいよいよあと一回となりました。これまでの連載でだんだんと「損得を超えた」というワードの正体が分かってきたと思います。「誠実」については、今回あちらこちらにヒントが埋め込まれていましたが、次回の「生」についての話でまとめていきたいと思います!

( つ づ く )

連載 『損得を超えた誠実を求めて』

第一回 『近代を引きずる現代を見つめる』

第二回 『近代の足跡を辿る』

第三回 『日本古来の自然観の再発見』

第四回 『近代を超克せずしてどこへゆく』

第五回 『脱主観と共にある未来を』

最終回『生に帰した誠実は何処に』

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