近代を超克せずしてどこへゆく

近代を超克せずしてどこへゆく

Series「損得を超えた誠実を求めて」

 シリーズを通して、「近代の延長」を生きる我々が先の時代に進むために、認識しておいた方がいいことを書いていきたいと思っています。全体を見た話をする相手が増えてほしいなあと思い、書くことにしました。こういった話は前提として、前を向いて語れる人が増えてきたらいいなあと思ったりしています。

 第四回は、『近代を超克せずしてどこへゆく』です。これまでの計三回は、今回の内容に入る前の準備でした。その総まとめのような感じで書いてこうと思います。とても大切です。心の穴を見つめましょう。

 「良い」とか「悪い」とか、「〇」とか「×」で、物事を語ることを辞めようという話をこれからしていきます。くれぐれもその前提を忘れずに、自分の中の勝手な思い込みで何かを「否定」したり「肯定」したりしないように気をつけて読んでもらいたいと思います。

第四話

『近代を超克せずしてどこへゆく』

「脱近代」への道のり

 第二回の「近代の足跡を辿る」で、「近代」を形作った様々な概念たちを見つめました。「人間」「大衆」「主体」「個人」「社会」「幸福」「国家」「自由」「平等」など、これらの概念たちは、近代以後の「社会」を支えるとともに、私たち一人一人の心や思考にも大きな影響を与えています。

 「近代」のこういった概念たちは「幻想」に過ぎず、人間が作ったフィクションでしかないという話はこれまで十分してきました。これらの「幻想」が時代に合わなくなって、多くの人を苦しめていることは、これまでの連載でも述べてきました。

 ということは、私たちは差し迫って「脱近代」を求められていると考えることができます。では、今回は「脱近代」へ向かうための手がかりを書いていこうと思います。

「枠」を意識する

 そんな状況であるにも関わらず、世の中の啓蒙啓発活動のほとんどが「近代」の「幻想」から抜け出せないままでいます。

 近年よく耳にする言葉で、「私は私、あなたはあなた」とか、「Win-Winな関係」といった言葉があります。これらはまさに「幻想」で「幻想の喪失」を埋めようとしているいい例です。

 「私は私、あなたはあなた」では、「個人」や「主体」といった近代のフレームから抜け出せていません。これは身の危険を感じた人間が、「自己の防衛」という生存戦略的思考によって生み出した分かりやすくて簡単な策です。「他人」と「自己」を分けることで、色んな苦しみや痛みを回避して、自分のアイデンティティを守る、そして肯定しようとしているのです。でも果たしてこの考え方に一体どんな未来(グランドデザイン)があるのでしょうか。

 「Win-Winな関係」というのはまさにこの連載のテーマでもある「損得」というフレームに大きく関わっています。「損得」というのは「国家」「社会」「幸福」の誕生の流れでも見たように「資本主義」の「常識」を基にした考え方です。ビジネスシーンでよく使われることからもそれはよく分かります。ビジネスでは「Win-Winな関係」を作れる者が得をする仕組みになっているので、この考え方はプラスに働きます。しかし、どこぞのビジネス書などでは、これがまるで人間関係においても大切かのように謳い始めます。果たして本当にそうなのでしょうか。人と人の関係というのは、そんなにもちんけで分かりやすく、単純なものなのでしょうか。

 こういった啓発文句にもあるように、私たちの身近なところにはたくさん「近代」のフレームに無自覚に内包されたものが含まれています。まず、「脱近代」を目指すためには、そういった「近代」を形作る「フレーム」及び「概念」及び「幻想」の存在を常日頃から意識することが重要です。

「社会」で生きていること

 私たちは、「近代の延長」として動き続ける「社会」というシステムの中で生きています。ということは、「社会」に対してあまりにも無関心であることは、自分自身の存在や生き方に矛盾を生むということでもあります。

 例えば、「私は金みたいな本質的には無価値なものいらないね。そんなものクソだ。」という人が、もしお金を交換手段として用いて生活を営んでいたら、とても矛盾に満ちた話です。「税金なんか払わねえよ!」と言う人が、家事を起こして消防士に火を消してもらったら、それはとても矛盾に満ちた話です。

 例えば、日本は日本でも無人島で完全な自給自足生活を営んでいれば話は別です。それは完全に「社会」から隔離されているため、「社会」の歯車から完全に外れていると言えます。しかし、そんな人はほとんどいないし、事実我々は「社会」の中で生きているのです。

 と、いうことは、今の「社会」が「近代の延長」であるということを考えると、「脱近代」を求めすぎると、自己に矛盾を生んでしまうことになります。

 例えば、「俺は”人間”というフレームに捉われないから、キリンもゾウもライオンも一緒に生活するぜ!」と言って野生動物を突然野放しにし始めたらどうでしょう。「公共の福祉」に反してしまいます。先ほども言ったように、私たちはどうしても「社会」で生きているので、好き勝手にはできないのです。現実から逃げていては結局何もできなくなってしまいます。

 でも、諦めてはいけません。

 大切なのは、自分自身が「物事を捉えるときの意識を変える」ということです。これを多くの人が行うようになれば、自ずと近代を超克するような発想はたくさん生まれてきますし、人々がそちらへ流れるようになります。ここを納得しておくのは非常に重要です。

二項対立からの脱却

 このシリーズの序章で毎回書いてきた言葉があります。

「良い」とか「悪い」とか、「〇」とか「×」で、物事を語ることを辞めようという話をこれからしていきます。くれぐれもその前提を忘れずに、自分の中の勝手な思い込みで何かを「否定」したり「肯定」したりしないように気をつけて読んでもらいたいと思います。

 これは「脱近代」へ進むためにとても重要なステップです。

 そしてこの重要なステップを考える上で必要になるのが、第三回で記した「日本古来の自然観の再発見」なのです。

 そこでも述べたように、日本では昔から人間が決めたことよりも不可思議なことが起こるのが常だと考えてきました。豊かな自然環境と、「多神教」の影響もあり、一つの考え方を「信じる」という文化ではなく、様々なものを共存させておく文化が発達しました。

 「〇」か「×」、「良い」か「悪い」というのは、かなり一神教的な考え方であり、欧的な文化の一つなのです。そういった考え方が「近代化」とともに日本に徐々に流れ込んできました。「近代教育」が欧州の教育を模倣したものだったので、そういった思考体系を取り入れたことも容易に想像できます。

 そして、「近代教育」をもろに受け、日本古来の自然観を継承せずに育った私たちは、まんまと「良い」「悪い」でしか物事を判断できない人間になったのです。

 しかし、それは表層に過ぎません。まだ、多くの日本人の心の奥底には、古来の自然観的な感性が残っています。「良い」や「悪い」以外のことがこの世界では存在しうることをまず、ハッキリと認識し直しましょう。その上で、物事に向き合っていくことが、とてつもなく重要です。

 ちなみにこの世界には「良い」「悪い」以外にも二項対立として語られる物事が本当にたくさんあります。それらのほとんどが欧的な考え方に基づいています。オルタナティブな視点こそが、前に進むための糸口になるかもしないということを、心にしっかり留めておきましょう。

 そうすれば、様々な視点から物事を捉えなければいけないということにも気が付きます。全ての物事は、ある面から見たら「良い」し、ある面から見たら「悪い」ただそれだけのことなのですから。「良い」「悪い」などの「二項対立」にたいして意味はないし、全てが存在してこの世界が成り立っているのです。だからこそ、この世界のありとあらゆる「二項対立」を思考の中から追い出して、違う指標を見つけることが大切です。

「枠」を消すのが全てではない

 さて、「脱近代」と言っては来ましたが、近代が生んだ概念は全て「悪い」ものではないということはもう分ったでしょう。いえ、そもそも「悪い」とか「良い」はどうでもいい、ということも分かったでしょう。

 「脱近代」とは、近代を否定して葬り去るのではなくて、「近代」というフレームの外に出て物事を考えよう、というだけのことなのです。

 ということは、近代を超克して、新たな世界観を生んでいくためには、近代までに培われてきた「概念」を守破離する必要性もあるということです。そして、大切な要素はイメージとして心のノートにちゃんと留めておくことが大切です。

 というのは、例えば、「自由」という概念は、非常に素晴らしいものです。ただ、とてつもなく曖昧です。「自由」を追い求めても、「そこには何もなかった」という事態は頻繁に発生します。

 例えば、「自由」を「機会の保障」だとします。「機会の保障」とは、「やりたいと思ったことをやれる」ということです。では、例えば、「アフリカの貧しい子にも教育の機会を!すべての人に自由を!」と叫ぶ人が、それを実現させたとします。学校に行けるようになった子どもたちが、お金を稼げるようになったとします。国は発展し、人々の生活水準は上がります。すると、発展の間に環境をたくさん破壊し、自然の原風景は消え失せ、空気は汚れ、人と人の繋がりは希薄化し、ネット依存が国民の8割に上り、子供が外で遊んでいたらうるさいと言われる社会が誕生するかもしれません。それは機会の与え方(教育の仕方)の問題だと言われるかもしれませんが、「自由」という概念はそこを規定しません。

 はて、「自由」を追い求めて、一体、なにがしたかったのでしょうか…。

 「自由」はあくまで「近代」が生んだ幻想に他なりません。それにこれは「社会」と「幸福」をセットにした「公共の福祉」を付随させてしか使用できない概念です。

 ただし、「自由」はとても素敵な概念です。心がスー―っと晴れやかに風通しが良くなる感じがするし、みんながイキイキと目を輝かせているようにも感じます。素敵です。

 「自由」から私たちが受け取らなければいけないものはそういうところなのではないでしょうか。「自由」を消すのではなく、そこにある素敵なイメージを掴み取って、心のノートに留めておくのです。

脱近代の意識は前提に過ぎない

 さて、ここまで「脱近代」への道のりを書いてきました。これらを意識して、物事を捉えていくことが、非常に重要です。そしてそれこそが、「近代」のフレームから飛び出すことでもあり、「新しい世界観」や「時代」を創っていくためのヒントでもあります。

 社会・個人・教育・様々なものが近代を超克することができなければ、「幻想の喪失」で苦しむ人は増え続けるでしょうし、もしかるするとあなた自身もいつか心を「病む」かもしれません。

 その辺の啓蒙主義者、自己啓発本やビジネス書やヒットソングの言葉たちのように「幻想の喪失」を「幻想」で埋めようとすると、「近代の延長の延長」が、あと50年くらい続くことになるでしょう。そんな世界を僕は「『優しい』ディストピア」と呼びます。「幻想の喪失」で死に直面した人が、「優しい」幻想で生き延びるのです。日本という世界はより「気持ち悪く」そして「不自然」になっていくのでしょう。

 「SDGs」や「男女平等」など、様々なことが現在叫ばれていますが、それらのほとんどが欧州発の概念です。経済的にも米中印などに対抗できなくなってきた欧州が、得意のブランディングノウハウを結集させて誕生させたのが「SDGs」だとも言われています。それはつまり日本からすれば「近代の延長」に過ぎないとも言えるでしょう。環境問題は世界全体で解決すべきテーマですが、分かりやすい二項対立指標に夢中になってしまっては、ディストピアに突き進むことになります。

 第三回の「日本古来の自然観の再発見」でも述べたように、環境問題に関しても、社会のあり方に関しても、日本の風土に合った変化のさせ方を模索していくことが重要です。

 「近代」が行き詰ってしまった現実に直面し、その時代を生きる私たちに課せられた課題は壮大です。けれどもその先には、手触り感を持って「生きている」我々の子どもたち、孫、未来の姿があるのです。

 今回は長くなってしまったのでここまでとします。今回で「脱近代」のお話がひと段落しました。ちなみにこの連載のテーマは「損得を超えた誠実を求めて」です。「脱近代」はその主たる役割を持つ一つの「前提(ステップ)」に過ぎません。

 次回は、「脱主観」という新たな領域に踏み入ります。ただこれもこれまでの内容を理解しておくことが重要です。そしてその次の回で終わる予定ですが、予定通りに行くかは分かりません。お楽しみにっ。

( つ づ く )

連載 『損得を超えた誠実を求めて』

第一回 『近代を引きずる現代を見つめる』

第二回 『近代の足跡を辿る』

第三回 『日本古来の自然観の再発見』

第四回 『近代を超克せずしてどこへゆく』

第五回 『脱主観と共にある未来を』

最終回『生に帰した誠実は何処に』

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