近代を引きずる現代を見つめる

近代を引きずる現代を見つめる

Series「損得を超えた誠実を求めて」

 シリーズを通して、「近代の延長」を生きる我々が先の時代に進むために、認識しておいた方がいいことを書いていきたいと思っています。全体を見た話をする相手が増えてほしいなあと思い、書くことにしました。こういった話は前提として、前を向いて語れる人が増えてきたらいいなあと思ったりしています。

 第一回は、『近代を引きずる現代を見つめる』です。まずは、手触り感を持って、自分事として考えてもらうために、現代の状況から見つめてみたいと思います。
 「良い」とか「悪い」とか、「〇」とか「×」で、物事を語ることを辞めようという話をこれからしていきます。くれぐれもその前提を忘れずに、自分の中の勝手な思い込みで何かを「否定」したり「肯定」したりしないように気をつけて読んでもらいたいと思います。

第一話

『近代を引きずる現代を見つめる』

現状の大枠を認識してみる

 私たちは、小学校・中学校・高校という小さな小さなコミュニティの中で育ってきました。今もまだ、学校では近代の成功体験を引きずって、全体主義に基づいた教育や、社会での「成功」や「幸せ」「勝ち負け」という幻想を追い求め続ける教育をしています。

 日本が経済的にも世界的に戦えなくなり、変化が激しく先を読むことが困難になってきたこの時代で、日本は岐路を迎えています。借金は増加の一途を辿り国家の財政は逼迫し、相対的貧困の問題は大きくなってきています。

 一極集中の都市構造が限界を迎え、地方分権が叫ばれ始めてはや十数年が経っても、地方の過疎化は進み続けている状況です。

 行政や企業や教育のデジタル化も遅れ、環境問題への対応も遅れ、多様性への寛容性も薄いままです。

 最適化された情報を鵜呑みにして安住する若者は増加し、隣に住んでいる人の名前も職業も知らないような「つながりの希薄化」が進み、何事にも無関心な人が増加の一途を辿っています。

 人口ピラミッドの変化に伴って、社会構造を変化させなければいけない状況になっても、変化を拒む国民性がそれを阻み続けてきました。

 子どもが満足に外で遊ぶこともできないような、より息苦しく、ディストピアな社会へと突き進んでいます。


 一時はコロナによって大きく社会は変わって行くかと思われましたが、圧倒的なリーダーの不在と、則ち国民の無関心によって、期待されていた変化は全くと言っていいほど進まずにいます。

 そこにも、時代錯誤の近代教育のひずみが大きく影響しているのは明らかになってきています。

 世界では、半独裁国家や共産主義の台頭が著しくなっています。強権的なリーダーの下、ロックダウンや強制政策の強行でコロナを抑えこみ、経済活動の再開を果たしているのです。一方日本のような「民主主義」の国家では、「人権」や「平等」が重要視され、政治は無力化してしまっているのが現状です。

 しかし、「民主主義」を崩壊させるわけにはいかない中で、どう現状を変えていくかというところで、ずっと右往左往している、若しくは右往左往さえせずにボーっとしているのが、今の日本の現状です。

 ここまで、現状の大枠を断片的にぐちゃぐちゃに羅列してみましたが、もし疑問なところがあれば、是非一つ一つしっかり調べてみてほしいです。問題はもっと深刻で、もっと奥深く、広範囲に広がっています。

 社会や現状に対して、疑問や苦しみを抱くことから、前に進むための準備は始まります。

教育の問題を認識してみる

 現状の大枠を認識したところで、その大きな原因の一つになっている「教育」について、簡単にその問題を整理してみたいと思います。

 今回は我々がまさに受けた教育や、今の教育を見つめて、問題に対して「手触り感」や「親近感」を持つことから始めようと思います。

「先生」の生き方と役割の流れ

 この章は、「“先生”とはいったい何か」を考えながら読んでください。

 まず、どういう人が学校の先生になるのかという仕組みについて考えてみようと思います。

 教員採用試験の内訳を見てみると、教員になる人の約52%が、教員経験者であり、約45~47%が新学卒者であると考えられ、「社会」を経験したことがある人がなんと、3.8%という異常な低さを示しています。

ここから分かることは、教師の97%が、「社会」を知らずして「先生」になるということです。

 先ほども述べましたが、我々は、「学校」という小さな小さなコミュニティで育ってきました。しかもなんと、そこで教えている先生の97%は、「学校」という「小さな小さな世界でしか生きたことが無い人」なのです。

 学校の1クラスを30人だとします。小学校から高校までの12年間で全部違うクラスになったとしても、30人×12年で360人と関わる可能性があることになります。日本の人口が、1億2500万人だとして、360人というのは、0.0000028%です。ものすごく小さなコミュニティです。世界の人口で比べたら、360人÷78億人で、0.000000046%です。学校というのは、本当に本当に圧倒的に小さな小さなコミュニティであることが分かります。そして、学校は環境が似通っているある種の「組織」なので、我々は12年間で数個の組織(内の環境)経験しかできないことになります。ミジンコより小さいです。

 そんなコミュニティでしか生きたことが無い人間(先生)が、「社会に出たらこれが必要だ!」と豪語して、色んなことを「教えてくる」のが学校です。

 もしも、1クラスの全員が全く違う環境で育った人間の集まりならば話は別ですが、基本的には似たような環境(及び教育)で育ってきた人たちが集まった集団です。つまり似たような環境で育った人々としか接してこなかった「先生」と呼ばれる人が、「人間と接するときはこれを気を付けよう」とか、「これは正解だ!これは間違いだ!」と、教えてくれるのです。

 さて、もう一つ現状の共有です。少なくとも、これほどまでに地域や家族の「教育的機能」が消えてしまった社会では、「教師」の役割はどんどん肥大化し、「教師任せ」な社会へと突き進んでいます。それに伴って、「教師」の「人を育てる」という役割はどんどん大きくなってきています。今後はさらに、教育の機械化と個別化が進み、「勉強を教える」という役割を機械や塾の先生が担うようになるので、教師はその「補助」と「人を育てる」という、より人間的な教育活動に力を注がなければいけなくなります。

 ここまでの現実はまず前提として理解しておきましょう。

「近代」の継承者としての小さな人々

 では、教師になる人の中身についてもう少し深く考えてみたいと思います。

 周りに教師になりたいという人がいたり、教師が実際に友達にいれば分かるかもしれませんが、「教師」の大半が、「子どもが好きだから」「好きな先生がいたから」「教科の勉強が好きだから」などといったことを志望理由としています。まあ、「学校から出て学校に入る」人たちはそんな志望理由であることは容易に想像できます。

 ここから見えてくるのは、教師になる人の大半が、小さな小さなコミュニティで生きてきた中で、そのシステムや先生そのものに対して「不満」や「苦しみ」を抱かずに生きてきた人が多いということです。学校が嫌いな人が学校の教員になるのは、なかなか壁があるし、やはり、「教師」のほとんどが、「学校」及び「社会」に対してそこまでの息苦しさや不満を抱かずに歩んできたということです。

 ということは、「自分が受けた教育」や「自分が生きている社会」に対して情熱的な疑問を持っていないので、それをそのまま「次の時代を創る子ども」に教えていくことに拒否感を持たないということになります。

 しかし、先ほども言ったように、これまでの教育のままじゃ太刀打ちできない時代に突入してしまっているので、それでは「未来の可能性を潰している」も同然なのです。

 と、いうことは、先生たちは自分がやってきたことを否定しなければいけない時が日常から多く訪れるようになります。しかし、小さなコミュニティでぬくぬくと育った未熟な人間たちは、そこで「言い訳」という名の「防衛本能力」を成長させることに勤しみ始ることになります。

 自分の人生を否定しても余裕な顔をできるほど器量の大きな人間はなかなかそんな「小さな小さな優しい世界」からは生まれてきません。自分のやってきたこと、自分が生きてきた人生を否定しないために、「いや、これはこういうメリットがありますから!!!」と顔を真っ赤にして必死に抵抗するようになるのです。

 これが、「教師」が「言い訳の達人」になるまでの過程です。

 さて、そんな教師たちが、時代を変えていくための教育などできるはずもありません。文科省の人間も同じことが言えます。よって、日本は何年も「近代教育」を引きずり続けることができたのです。

 そんな教育を続けてきた社会、及び「現代」が「近代の延長」であることは、なんとも理解の容易いことなのです。

政治の問題を認識してみる

 ここまで教育の問題についてまとめてきました。実は、政治に関して考えるとき、ほとんど教育と同じようなロジックで考えることができます。

 時代や人を育てるのが「教育」だとして、「教育」を創るのは誰かと言ったらそれは「政治」です。

「自分の人生を否定できない」人の群れ

 政治家の中には、「社会」に対して情熱的疑問を持っている人がたくさんいるかもしれません。しかし、教師と同じで、「自分が生きてきた人生」を否定しても平気でいられる人などそうそういません。

 政治家を動かすのが官僚だとすると、官僚のほとんどは高学歴出身者です。「学校」というシステムの中で「成功」したとされてきた人たちが「官僚」になり、政治家を動かすわけです。近代教育の恩恵をもろに受け取った人たちが、「こんな教育じゃダメだ!」と言わないのは、「自分の人生を否定したくないから」に他なりません。

 近代の成功をもろに引きずってきたのが安倍さんで、「菅さんになれば…」とみんな期待していたけれど、菅さんには、今の日本のカチコチに固まった政治界や経済界は変えられないことがだんだんと分かってきました。

 こんな時に必要なのは、圧倒的に剛腕なリーダーの出現か、自然災害などの危機による国民の変化だと考えられてきました。しかし、今回コロナによって、国民が変わっていくのが困難であることもだんだんと分かってきました。

 こういったことが、今の政治の現状かもしれません。

国民の問題を認識してみる

 さてさて、ということは、「民主主義」の日本では、政治家を選ぶのは国民なので、国民に色々問題があるということになってきます。「教育」「政治」「国民」これらはぐるぐると循環する関係性を持っています。

失い続けてきた風土に合う自然観

 まず、政治の流れで行くと、投票率は50%前後を漂っており、国民の半分しか投票に行きません。国民の半分は無関心ということになります。

 やはり、現状や社会に対して情熱的な疑問を持つところが重要だと考えると、今の暮らしや、今の社会に満足している人が多いということになります。或いは政治家や政治そのものの無力さへの「諦め」もあるように思います。

 では、なぜ、ここまでみんなが余裕を持って暮らせるのかということを考えると、やはり、近代の「成功」を引きずっているということになります。

 戦時中からの全体主義的な近代教育によって、国民は画一化され、それが圧倒的なパワーを発揮して戦後復興を押し進めました。ジャパンアズナンバーワンと言われるほど、日本は経済的に成長していきました。
 バブルが崩壊してから失われた20年を経て、結果的に安倍政権もそれを維持する形となり終焉しました。

 こういった近代化以後の時の流れの中で失ってきたものが、今、大きな問題となって降りかかってきているのです。

 近代がもたらした「豊かさ」は大きいですが、近代がもたらした喪失も本当に大きいものがありました。

 近代がもたらした「豊かさ」の中心が、「資本主義」にまつわる「損や得」「成功」「幸福」などの「意味」の流布によるものでした。

 そして、近代がもたらした喪失の中心は、東洋の自然観や、そこから生まれてくる文化的魂にまつわるものたちでした。


 今、
「自分は社会で生きていても何も生まない人間だ」とか、「自分が今まで成功だと信じてきたものは何だったんだろう」とか、「自分が今まで求めてきた幸福なんてのはそもそも何だったんだろう」とか、「意味」の崩壊による大きすぎる「喪失」によって、自ら命を絶つ人や、心を病んでしまう人が本当にたくさんたくさん増えてきています。

 何かを「信じる」ということは、生きていくうえで非常に重要な役割を果たします。しかし、信じてきた「意味」が突如消えてしまった時、人や人の心は簡単に死んでしまいます。

 「意味」の喪失でニヒリズムが漂う社会では、新しい宗教や一つのイデオロギーが著しく台頭することもあるし、戦争を起こしやすくなるのもそういう時でしょう。

 しかし、「意味」の喪失を一度も経験せず、無思考に社会に埋没して生きている人の方が今マジョリティーであることは、ここまで見てきた「教育」「政治」そして「国民」の現状を見れば明らかです。

 「考えるのがめんどくさい」とか、「楽だから」とか、「別に良くね?」といった、損得感情に基づく思考法で、苦しみから逃げて、現状維持と言い訳に邁進します。誠に悲しい話ですが、その歪みは、至る所に現れて、前に進もうと懸命に生きている人を引き裂き、心を蝕み続けていきます。


 さて、次回以降、近代化以後のグローバル化した時代で失ったものと得たものをちゃんと整理して、今後、より日本の風土にあった「自然観」及び「文化」とエコシステムを育んでいくことが重要であり、それは本質的に持続可能な社会なのではないかという話をしていきます。

 前近代の日本社会では、より日本の風土に合った自然観の下、文化的考え方や、エコシステムが成り立っていました。それを全て元に戻そうという話ではありませんが、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉にもあるように、一度、見つめてみることは非常に重要です。

 しかし、それにはそれ相応の痛みが伴います。「意味」の喪失をもたらし、あなたの信じてきたものを否定しなければいけない時が来るかもしれません。前半の方で何度も述べた「自分の人生を否定する」というのは、解釈としては「自分が信じてきたもの(意味)を否定し崩壊させる」ということです。

 先ほども述べたように、そのステップこそが、前に進むための準備となります。

 次回は、「近代」の足跡を辿ります。

 

( お わ り )

連載 『損得を超えた誠実を求めて』

第一回 『近代を引きずる現代を見つめる』

第二回 『近代の足跡を辿る』

第三回 『日本古来の自然観の再発見』

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