「趣」を感じる力はあるか

「趣」を感じる力はあるか

「趣」を感じる力はあるか

質問です。

皆さんは、「金閣寺」と「銀閣寺」どちらが好きですか?

僕は、圧倒的に「銀閣寺」です。初めて京都で「金閣寺」と「銀閣寺」を見に行ったのは、僕が小学校3年生か4年生の時だった気がします。僕は小学生ながら、「金閣寺」の金ピカに全くときめかず、あーなんかしょうもないなあ…なんて思っているいけ好かない少年でした。一方、銀閣寺は初めていった時、心が癒される感覚を覚えたのをはっきり覚えています。そこで僕は、人生で初めて、「趣」というものに触れました。

自然を敬った庭園の雰囲気と、月と砂の融合に魅了された先祖たち、木の味をたっぷり生かした本堂、なんと情緒的で、自然味で溢れ、様々な文脈が重なり合い、美しいのでしょうか。

僕は、何をやるにしても、文字を書くにしても、言葉を話すにしても、「趣」というものをとても大切にしています。「金ピカ」に僕はなぜ「趣」を感じないのでしょうか。日本には「侘び寂び」という伝統的なとても美しい文化があります。「侘び寂び」とは、人の世の儚さ、無常であることを美しいと感じる美意識のことです。「侘び」は、貧粗や不足の中に心の充足を見出そうとする意識のこと。「寂び」は、閑寂さの中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさのこと。そうですね。まさに僕が好きなのはこれなんです。

「侘び寂び」は「趣(しみじみと感じられる風情)」を作り出す需要な要素となるんだと思います。

クラブでウェイウェイはしゃぐことに僕は「趣」を感じません。けれど、はしゃいでる人間の心の中に寂しさや虚しさがあるのならば、そこに「趣」を感じます。僕はそういうところまで見たいと思って人と接しています。だからよく、何も言わなくても目を見てるだけで何か伝えようとして来てる感じがする、とか、心の隠してるところを見られてる気がしていやだ、とか言われたりします。

色んなことに、チャレンジするのは、とても大切なことで、いろんなことに興味を持てるのも大きな力です。面白いと思ったら、やればいいじゃんと言う人もいますし、それを行動の基準にしている人もいます。僕もどちらかと言うとそのタイプです。ただ、この「面白い」も僕は「趣」を含んでいないものには感じません。

・人の世の儚さ、無常であることを美しいと感じる美意識

・貧粗や不足の中に心の充足を見出そうとする意識

・閑寂さの中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ

ここを直感的に且つ、注意深く探して、物事に立ち向かうこと。僕はこれをとても大事にしています。物事の表面(肩書や名誉、見た目やお金)だけではなく、その奥にある「趣」を感じられる人でいたいと僕は思うのです。

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