「普通」は終わり

「普通」は終わり

さて、質問です。

あなたは「普通」という言葉をよく使いますか?

僕は知らぬ間によく使ってしまっています。今日はこの「普通」という言葉についてのお話です。

「普通」の終わり

あなたは、「普通」という言葉が、一体どれだけの人を傷つけて、苦しめているかを、想像したことはありますか?

僕たちは、学校で「普通」を求められ、「普通」でないことをすると叱られ、いじめられたり、冷たい目で見られたり、そんなとんでもない環境で育ってきました。「普通」でいることが苦手な子にとっては、それはとてつもなく苦しいことで、そういった社会の雰囲気は、彼らの居場所を奪うばかりでした。家に帰っても、親にさえ自分の「個性」を認めてもらえず、「普通」を強要されてしまう。

近代教育の生んだ「普通」という言葉(意識)は、僕からしたら、ちょっとした悪魔のようなものです。

日本は、経済産業分野でも、「普通」を教え込む教育のおかげで、ミスのない大量生産の発展による戦後高度経済成長を遂げ、世界トップレベルの豊かさを手に入れました。

しかし、ITの波に乗り遅れ、バブル後の社会は「失われた20年」と言われるほど経済は停滞し、貧富の格差も開いてきました。そして現在、今やってきているもっと大きな波に乗れるか乗れないかの瀬戸際を迎えています。

「大量生産」は終わり、「個性」が価値を生み出す時代に突入したのです。その変化に日本は対応できず、ずっと「普通」を叩き込む教育を社会全体で続けてきました。今もなお、その空気はこの社会を取り巻いています。

男女平等も世界的に見てもかなり日本は遅れています。

我々は、今こそ近代教育の産物である「普通」という言葉を捨てるべきなのです。「個性」を尊重できる社会になるべきなのです。「その人らしく生きていること自体が価値である社会」を目指すべきだと思うのです。

「普通」を捨てよ

「普通」という言葉は、使い方によって、意味合いが少し変わってきます。僕は「普通」の使い方を二種類思いつきます。(ほかにもあるかも)

一つは、「普通は、~」のように主語として使われる場合の「普通」です。これはまさに近代教育の産物である「普通」です。

一方、「普通に、~できるよ」のように、「楽勝で」とか「いつも通り」とかという意味として使われる「普通」もあります。これは別にどうでもいいです。

「普通は~じゃん」とか、「普通は~だよね」とか、、、これが捨てるべき「普通」なのです。

勘違いしてほしくないのは、言葉としての「普通」ではなく、意識としての「普通」を変えるべきだと僕は思っています。

さて、それでは

「普通」の代わりにどんな言葉を使えばよいのか、二つ提案します。

「一般的には」と「普遍的には」です。

一般的なことなら、「一般的には」を使えばいいと思うし、

普遍的なことなら、「普遍的には」を使えばいいと思います。

他にも、時々に合った言葉はいくつもあるはずです。言葉を変えることで意識を変えていきましょう。

もう、「普通」という幻想は捨てましょう。それで苦しんでいる子供も、大人も、今も、たくさんたくさんいます。どうか、彼らを「普通」という見えない凶器で傷つけるのはもうやめてください。

「普通」を捨てよ。

そして、

「普通」を捨てた時に生じるかもしれない問題を考えてみてください。

・・・

いくつか思い浮かびましたか?

そうです。

だからこそ、我々は学ぶのです、学び続けるのです。

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