「幸せ」とは何か

「幸せ」とは何か

アフリカにてナイル川が白く輝く姿を眺めながら、長いこと考え続けてきた「幸せ」について、書きます。一つ一つ、とても大切に書きました。

「幸せ」は人それぞれ

「幸せ」は人それぞれ

とにもかくにもこの考えは一番よく聞く、いかにも普通で、それでも最も大切なことです。「幸せ」を感じる瞬間は人によって違います。まずは遺伝子、本能、そして、その人が生まれた場所、家族、教育、自然、貧富などなど、ありとあらゆる周囲の環境によって世界で唯一のあなたが生まれます。あなたが「幸せ」だと感じる瞬間も、隣の誰かにとっては「不幸だ」と感じる瞬間かもしれません。逆も然り。一方、あなたが「幸せ」と感じる瞬間が、隣の誰かにとっても「幸せ」と感じる瞬間かもしれません。

まず、「幸せ」を感じる瞬間は、“人によって違う”ということを覚えておきます。

より普遍に近い「幸せ」

「幸せ」は人それぞれ、ということを理解し、僕はこう考え始めました、より多くの人に共通する、普遍に近い「幸せ」って何なんだろう、と。その中でこんな考えに辿りつきました。

「選択肢があって、自分がやりたいことを自分の意思で選択して、できること」

「自分の持ってるものを出せること」

これが「幸せ」なのではないか。

しかし、ネパールに行った時、この考えも、自信を持てなくなってしまいました。なぜかというと、「選択肢が増えることによる苦痛」の存在に気が付いたからです。例えば、日本では多くの人が自分がやりたいと思うことをできる環境があります。個人個人に無数の選択肢が与えられている社会です。その中で、人々は、その選択肢の分だけ、考えなければいけなくなります。ある一つのことを選択すると、他の選択肢を消去する「痛み」が生まれます。それに、そもそも「考える」こと自体に苦痛を感じ、何が正しいかなんてもう分からなくなり、「選択肢が増えれば増えるほど、苦痛も増える」という状況があるではありませんか。

「選択肢がないこと」「知らないこと」がもたらす「幸せ」もあるのではないのかと、考え始めたのです。

「幸せ」は瞬間の「感情」

OWNDAYSの田中さんがこんなことを仰っていました。

そもそも「幸せ」という言葉は、「状態」を表す言葉ではなくて瞬間瞬間に感じる「感情」なのだ。

田中修治さんブログ「幸せ」という名の不幸の呪縛→https://ameblo.jp/shuji7777/entry-12570947440.html 

僕はこの言葉にとても共感しました。結婚式で「あなたを幸せにするよ」とか、「あの人は幸せだ」とか、「こんな人は幸せだ」とか、あたかも「幸せ」が恒常的な状態のように言ったり表現したりするのは間違っていると思います。

「幸せ」は瞬間瞬間に感じる「感情」を表す単語なのです。

ここから見えてくるのは、そもそも「幸せ」とはなにかを考えること自体、おかしいということです。

「幸せ」とは何かを考えるのは、「嬉しい」って何だろう、とか「悲しい」って何だろうと考えているようなものなのです。

「幸せ」は恒常的な「状態」を表す単語ではない、ということを覚えておきましょう。

世界中に「幸せ」は溢れてる

どこに行ったとしても、どんなに「貧しい」と言われる場所に行っても、「幸せ」は必ず溢れています。

アフリカに来て、驚きました。僕が今滞在してる村には、子供が学校に行くお金もないし、綺麗な水もないし、衛生的なトイレもないし、子供たちは着る服もないし、綺麗な水もないし、電気もないし、子供の靴もない。それを嘆き「不幸」を感じている人もいます。でもね、そんなことよりも、ここにしかない自然や、可能性に目を向けて生きている人もたくさんいるんです。そしてなにより、とんでもない「笑い」で溢れてるんです。こんなに笑うかってくらい、みんな笑ってるんです。子供も、青年も、お母さんも、お父さんも、おじいちゃんも、笑ってるんです。よく笑うんです。ほんとに。心から。日本でこんな笑ってる人まずいません。

その場所にはその場所の、その人にはその人の、「幸せ」があって、この世界ではどこでも、「幸せ」も「不幸」もちゃんと、ちゃんと溢れてるんです。

「戦争」という「不幸」

でも僕は、人がどうしたって「幸せ」を感じれない環境もあると考えています。

それは「戦争」です。「戦争」は「幸せ」という感情を生みません。

「戦争」や「紛争」の中で生まれた子供は「幸せ」をどうしたって実感できないのではないかと思います。ただ、僕はまだ「戦争」の現場に行ったことがないので、あくまで予想でしか言えません。でも想像してみてください。戦地で生まれ、いつ弾が飛んでくるかも分からない、隣では爆発が起きて人が死んでいく、こんな場所で「幸せ」を感じる余裕はあるでしょうか。

「幸せ」はお金を指標にできない

「戦争」以外にも、「絶対的貧困」も「不幸」だろ、という意見があります。これについて僕は一概に言えないと思っています。「絶対的貧困」を示す方法はいくつかありますが、例えば、「一日1.9ドル以下で暮らす人のこと」とか、「一日2ドル以下で暮らす人のこと」とかとかですね。確かに、世界にはまだ、今この瞬間も、「水がない」だとか、「飢えて死にそう」とかいう状況にいる人がいます。これらの人はどうしたって、「幸せ」を感じにくい状況にあると思います。これは事実です。ただ、世界は確実に良くなってきていることも事実です。数十年前と比べれば「飢えて死にそう」という人は確実に減ってきています。

そして、世界には、一日にお金を全く使わなくても、ある程度余裕をもって生きていける人はいます。「自給自足」です。これは勿論自分で育てた食物だけを食べる自給自足ではありません。村や地域で協力して、みんなで育てたモノを分け合って、生きていきます。世界にはこういう人たちも少なからずいます。彼らは「笑う」余裕も、「幸せ」を感じる余裕も持っています。一概に、「絶対的貧困」と言っても、全員が「飢えて死にそう」なわけではないということは覚えておかなければいけません。そして、世界は確実に良くなってきていて、「飢えて死にそう」な人がかなり減ってきていることも、覚えておかなければいけません。一方、どんなにお金があっても、毎日死ぬほど忙しくて、「幸せ」なんて感じる余裕がない人も世界にはたくさんいます。

つまり、「幸せ」を「お金」で決めつけることは不可能だということです。

「死」が「不幸」とも言い切れない

また、「死」も「不幸」だろ、という意見もあります。僕はこの意見は賛成ですが、これもまた、一概に言えないのが今の世界の現実です。なぜなら、「人が死ににくい世の中」になってきているからです。

ミクロの話をします。「人が死ぬ」ということからは「不幸」しか生まれません。誰かが死んで「幸せ」を感じる人間はいないと思います。よく、犯罪者で人を殺して笑っている人がいますが、そういう人が感じているものは、「幸せ」とはもっと違う感情だと僕は思っています。

そうなんです、「死」は「不幸」しか生みません

しかし、マクロの話をすると、ちょっと変わるんです。

これまでは、人が確実に死に、若者がそのぶん生まれ、バランスがとれていたので、ミクロの話だけで対応できました。しかし、今の日本の社会を見ても少子高齢化が深刻なように、人がなかなか死なず、一方で子供も増えないという現実が生まれています。日本の経済の状態を考えても、このまま貧富の差が広がらず、持続可能な社会を作って生きたいのなら、「人が生き続けない」ことは一つの策でもあります。平均寿命をこれ以上延ばさないで、若者のための社会を作れば、未来の世代一人一人が、「幸せ」を感じる余裕が少しでも生まれるかもしれません。今、この瞬間には、人が死んで、誰かの「幸せ」が増えることはありません。でも、将来的に「幸せ」が増える可能性は少なからずあるのです。これは事実です。

だから「死」を「不幸」と僕は言いたいけれど、それを言えない世界になってきたのも、事実として受け入れなければいけません

それでも人間はやはり、「死」を「不幸」と感じたいので、どんなに平均寿命が延びても、どんなに子供が減っても、それでもなんとかして貧富の差を広げずに、経済を保たせ、そして未来へと持続可能な世界を創っていくと、必死になって今頑張っています。この希望を持って、なんとか、なんとか、と、もがき続ける者で僕もありたいと思うので、「死」は「不幸」だと信じていきます

「幸せ」を語る人間になるな

僕が「幸せ」を考え続けてきて、たどり着いた結論はこれです。

「他人の「幸せ」を語る人間になるな。」

「そもそも「幸せ」を語る人間になるな。」

もうやめましょう。「誰かは幸せなのに」とか「誰かは幸せじゃない」とかって思うのは。

もうやめましょう。「幸せ」について考えるのは。

結局、誰が、何を、どんな瞬間に、「幸せ」と感じるかなんて分らんのです。この人は「不幸だ」なんて一体どんなに思い上がっているのでしょうか。一体あなたは神様かなにかなのでしょうか。

もっと単純なことに目を向け、

もっと単純なことに気付き、

もっと単純なことを大事にしましょう。

「幸せ」を語る人間になるな。

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