今日を生きる全ての人へ3

今日を生きる全ての人へ3

「足し算」から「引き算」へ

経済成長を目標とする僕たちの生きる社会は「足し算社会」と言われたりします。

学校では「より速く、より多く」問題を解くことが、ビジネスの世界では「より多く、より速く」モノを作り売ることがいいことだと、洗脳され、皆、「もっと、もっと」と呪文のように唱えています。お金が多ければ多いほど人はより幸せであるとか、モノが多ければ多いほど社会の豊かさが増えるとかと、信じ込んでいます。日本人たちは、GDPやGNPが上がったの下がったのと、毎年大騒ぎしています。「足し算教」の信者たちは、GDPやGNPが大きくなることこそが社会にとって何より大事だと信じているし、この大きさによって社会の豊かさや人々の幸せが計れると信じているのです。彼らの考え方、つまり、「経済成長のためには戦争も環境破壊も仕方ない」というめちゃくちゃな考え方が、たくさんの命を殺し、危険にさらし、地球を痛め続けているのです。

日本でも、自殺する人は毎年2万人もいてその十倍近くの数の人々が、自殺未遂をはかっているとされています。引きこもりや、不登校の子どもたちも多いですが、嫌々学校に通っている子供たちは、その何十倍もいるはずです。どうやら僕たちの「足し算教」は自然界や外国の人々の迷惑になるばかりでなく、幸せを求めているはずの自分たち自身を苦しめて、不幸にしてしまっているらしいのです。

「足し算教」を抜け出すカギは「引き算」にあると思います。「引き算」上手になることです。

それでは、僕らの住んでいる家について考えてみましょう。あなたの家は、家具や電化製品や様々なモノでごったがえしてないですか?そこから引き算をして、ひとつ、またひとつ、モノを引いてみましょう。すると、部屋のスペースはもっと多くなって、部屋が大きくなりますね。また、モノを使ったり、その手入れをする時間もいらなくなって、もっと多くの時間が手に入れられます。そう、「引くことで増える」のです。

逆に、たくさんのモノを持とうと思えば、もっと多くのお金が必要で、そのためには今よりもっと働かなければならなくなり、家族や友達と過ごす時間が、もっと少なくなるでしょう。また、新しく買ったモノたちのせいで家はますます狭くなり、もっとおおくのスペースを持つ家が必要になり、そのためにはまたもっともっと働かなければいけなくなり、それでやっとローンを組んで手に入れた家にいられる時間はますます少なくなっていきます。これでは、「増えることで減る」になってしまっていますね。

僕たちは「より少ないことがより良い結果につながる」ということを思い出さなければいけません。買い物一つにしても、より安いものをより多く買うより、より品質のいいモノを、少なく買う方が、健康のためにも、自然環境のためにも、より良い結果をもたらすということはよくあるのです。

僕たち現代人は次から次へと発明される新しいテクノロジーを生活に取り入れてきました。その結果ぼくたちは電化製品やハイテク機器にますます頼るようになって、もうそれらなしでは生きていけなくなっています。機械のおかげでみんな便利になったというけれど、本当はどうなんでしょう。機械に頼り切るようになった人間は、昔の人たちがもっていたくらしのための身体的な能力や、仲間同士で協力し合う知恵や、自然界についての深い理解をどんどんなくしてしまったのではないでしょうか。この機械がないとこれができない、あの機械が無いとあれができない、というふうになってしまった僕たちは、実は自由になったのではなくて、かえって不自由になったのではでしょうか。実際に、「増えることで減る」になってるのです。

私たち一人一人が、「引き算」を恐れないで、「引き算」の練習をしなきゃいけないのです。そして何より、政治家や経済学者こそ、「引き算」を習ってもらわなければいけません。

テレビをつけて、人が作ってくれた「文化」を見るだけでなく、自分の暮らしの中で、自分自身が「文化」を作る人になるのです。モノやお金に頼ることなく、自分たち自身で生きていることを楽しむ能力、それが本当の「文化」というものではないですか。それにこっちのほうが面白くないですか。

「引き算」の後には、必ず「じゃあ、どうするのか」という問いが続きます。その問いに僕たちは自分の知恵と想像力で答えるんです。

「引き算」は、「こうでなければならない」という決まり切った退屈な世界にワクワクするような新しい可能性を開いてくれるのです。

幸せはお金じゃ買えない

これまで「ムダ」と思い込んできたことや、世間で「雑用」と呼ばれてバカにされていることを、見直してみましょう。散歩をすること。人とムダ話をすること。ゆっくりと時間をかけて食べること。ボーっと物思いにふけること。願うこと。祈ること。何の役にも立たないと思われてきたことに、実はすごい価値があるかもしれません。役に立たないと思われていたモノも同じです。周りからすればガラクタのようなものでも、自分にとっては宝物となるものがありませんか。それらのモノが僕たちにとってとても大切でかけがえのないものに思えるのは、それらのモノ自体に価値があるというよりも、そこにまとわりついている思い出や、そのものの中に閉じ込められ、何かのついでにそこからにじみ出る素敵な時間こそが、モノを宝物へと変えるのです。

僕たちがその中に生きている経済のシステムというものは、人々の自分に対する不満や、自分が今持っているモノについての不満を燃料にして動いている機械のようなものです。今や人々は自分が抱え込んだ欲求不満の重さに押しつぶされそうになっているのではないでしょうか。そして、地球もまた、その重みに悲鳴をあげています。

「欲しがる」のをやめてみましょう。少ないものへ向けていた関心を、もっとざらにあるものへと向けなおすだけでいいんです。道端で拾った石ころに経済的な価値はありません。しかし、その一つ一つにはこの世に二つとない独特の美しさがあります。気の遠くなるような時のめぐりあわせの末に、ひとつの石が今ここにこういう形をとって、自分の手のひらにのっているのです。これは一つの奇跡ではないでしょうか。

モノと幸福感の関係を研究した心理学者はこんな結論に至ったといいます。

「幸福とは欲しいものを手に入れることではなく、すでに持っているものを欲しいと思うことなのだ」

僕たちは発想を大きく転換する必要があります。もっていないものを追い求めることから、もっているものを楽しむことへ。ないものねだりから、あるもの探しへ。遠い場所から身のまわりへ。希少なものばかりに群がる自分から、一見どこにでもざらにあるものに熱いまなざしを向ける自分へ。お金で測れる価値のすぐ横にお金でははかれない価値を置いてみましょう。自分のものにする喜びのそばに、ほかの人たちと分け合う嬉しさを、おいてみようではありませんか。

ちょっと前までは、子供たちの楽しみはタダでした。今ではたくさんのお金が無ければ買えないような遊びのための道具や機械や施設なしに楽しく遊ぶことはとても難しいと多くの人たちは感じるかもしれません。でもね、今も世界の片隅では、何もない中で、夢中になって遊んでいる子供たちがいるんです。今ここにあるモノだけで遊ぶんです。ないものについて不平を言う暇があったら、あるものを活かして楽しんでしまうんです。お金がない人は楽しむことができないなんて、ありえないですよ!

僕たちは自分たちで楽しく遊ぶ能力を失くしてしまいました。僕たちはそんな力を取り戻さなければいけません。お金だけでははかれないような価値を自分で作り出し、育てる能力を、自分の中に、家庭の中に、地域の中に生き返らせるのです。

これは実は簡単なことです。僕たちが大切にしている宝物や楽しみについて考えてみればすぐに分かります。それらは、はた目から見たら無意味かもしれません。けれど、僕たちは、そのモノを手に取って見ているだけで、その本を読んでいるだけで、その人たちといるだけで、空を見ているだけで、手作りのお弁当を広げているだけで、僕たちはこんなにも幸せです。

ほら、

人生で一番大事なものはお金じゃはかれないし、お金じゃ買えないということを、僕たちはもうよく知っているではありませんか。

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