「今を生きる」の恐怖はどこから生まれるのか。それは本当に生きるなのか。

2023年1月19日

 「今を生きる」の恐怖はどこから生まれるのか。

それは本当に生きるなのか。

 

 今を生きる」という言葉は幸福のアヘンなのか。自己啓発の類でよく語られるこのまるで透き通っていそうな理解しやすい言葉が、都合よく利用され、世界を隠すための道具となっている。それは諦めでもある。それは「向き合わない」と言うことでもある。それがやがていのちへの不誠実さに繋がり、それはまた意図せずして盲信する人々の可能性を奪っていくアヘンとなっている。

 もしもその言葉が、自分自身が歩んだ見たくない過去を見ず、今を肯定するための道具として使われているのなら、注意深くあろう。

「私は今を生きてるの。もう過去のことは忘れたの。」

 あまりにもごもっともな意見に聞こえるがこうしたものを一元的に見ることは誰かの恐怖につながる。巡り巡ってまた誰かの痛みになっていく。ここで指標とすべきは諦めるの対義語として僕が用いている「溶かして抱きしめて気化させる」というものだ。無論これも時と場合によっては「嗜み」にすぎない。

 

 2パターン考えよう。一つ目は、自分だけが傷ついた事柄であるパターン。二つ目は、自分のみならず誰か他の人が傷ついたパターンだ。

 

 まず一つ目のパターンに関してだが、自分だけが傷ついた場合、それにちゃんと向き合って「溶かして抱きしめて気化させる」ことができれば、今後同じ痛みを抱えた人にただの「共感」や「仲間意識」で終わることなく、抱きしめただけで全てを救える可能性を持てるというだけの話でしかない。それを望むか望まないかは各人のみぞ知るところとなるだろう。「溶かして抱きしめて気化させる」のは、過去の感情がちゃんといのちの状態で自分の一部になるということでもある。とんでもない痛みをありありと思い出せ!という冷たい話をしてるんじゃあない。

 ものすごくトンガって痛くて、ギザギザで真っ黒で、血だらけの、あの刃物、槍だった「痛み」がまず溶けて、ドロ〜ンとしたものにゆっくりと広がっていく。それは冷たい冷たい痛みに圧倒的な温もりをぶち当てて冷たさを取り除く作業でもある。もうこの時点であの痛みの大半は消えて無くなっている。痛みは圧倒的な安心とブレンドするとおいしいココアにでもなる。

 さあ、まだちょっと怖いけれど、それらを抱き締める勇気をここで持とう。それは「自分の苦しみを苦しみ抜こう。自分の悲しみを悲しみ抜こう。それでやっとほんとうの自分になれるんだ。」の大きな部分を占めているところでもある。抱き締めるんだ。強く。優しく。あたたかく。自分の温度で溶かした痛みたちは、あなたの一部となってゆく。

 そして、もうあとは、弾ける。放たれる。ぷわあああん、ぽわああ、プシュー、ふわあああ、と固体だったものたちが液体となって、それがここで気化していく。その分子一つ一つは、光に反射してキラキラと輝いている。そしてそれはちゃんとあなたの養分となるものは養分となり、それ以外のものは世界に輝く光と消えていく。

 これを痛みと出会った時にちゃんとし続けていけば、貴方は同じような痛みを受けた人の手に触れただけで、その人の痛みを溶かせる人に、いつの日かなるだろう。だが、それを義務だと言うつもりはサラサラない。それは、各人の「嗜み」であって然るべきだ。

 

 次に二つ目のパターン。自分のみならず、他の人が傷ついた場合、義務だとまでは言わないが、向き合って、向き合い抜いて、前に進むことを、僕は願う。これさえもできなくなった人間が、「私は今を生きている。過去のことはもう忘れたんだからほじくり返さないで。」と言うのってどうなんだろう。誰かが傷つくことを放置して、向き合わず、「私はその人を傷つけた痛みも背負って生きる」とかくだらない認識論を口走っていたら、「お前はタチコマでいいんじゃないか?」と思ってしまう。これは沼だ。この沼にどっぷり入るともう見える世界はどんどん小さく小さくなっていく。知らぬ間に自分の可能性を奪い続けていく。ちゃんと向き合うことを「諦めた」人間たちは、その後も諦めに諦めを重ねていく。どんどんどんどん認識論的な世界線(3D平面スクリーン世界)の解像度を上げ続け、気がついた時には、全てが整理されて整っているように見えている世界線に突入する。スクリーンには綺麗な綺麗な世界が映り、そして時折被害者にもなる必要があるため、見たくないものを綺麗に加工してスクリーンに映す。自慰行為としての人生は、機械的に進んでいく。イベントがランダムに発生する予測可能内に常にあって、ゲームのキャラクター的でもある。

 

 もっと探求するといずれ二つのパターンは解けて融合する。誰かが傷つくのは常に「誰か一人のせい」ではない。傷つけたと思っている人にも人生があり、生きてきた環境がある。複雑なものがたくさん作用しあってその人がいるんだと言うほんとうの話にちゃんと誠実に向き合うのなら、その人一人のせいになんてできるはずがないんだ。自分だって大きくその人の悪事に影響を及しているはずだ。そうすると、誰かを傷つけた側だとしても、傷つけられた側だとしても、両者は常に循環の中の一部にあるのである。その追求はまた、「自分の苦しみを苦しみ抜こう。自分の悲しみを悲しみ抜こう。それでやっとほんとうの自分になれるんだ。」の核心なんじゃないだろうか。さすればきっと一つ目のパターンだとしても、向き合うことに諦めてはならないんじゃないだろうか。

 何を隠そう、こうしたことに誠実に向き合い続けてきた生きものは「今を生きる」なんて軽々しく口にはしない。即ち過去を生きることでもあり、未来を生きることでもあるからだ。もっと言おう。俺の言ってる「生きる」は「心臓が動いていること」ではない。これはいのち(非生命)の話なんだ。魂の話なんだ。言わせてもらおう。そこに「時間」という概念はほぼ存在しないと言ってもいい。あるのは過去であり今であり未来だ。広い。広い。遥かなる世界だ。その中で必死に生きてんだ。生きてんだ。

 

 小さな世界に籠るな。諦めるな。諦めるな。

 

 貴方の涙は私のものに。私の涙は貴方のものに。そこにもう貴方も私もない。とてつもなく豊かな世界が待っている。

 

 「今を生きる」なんて言葉に幸福を委ねて満足して立ち止まって固まってしまう前に、そんなゲームに参加する前に、その手のぬくもりに希望を忘れないでほしいと、心から祈る。

 

itsuki minami